14 「わたしたちは、神の作品であり、わたしたちが歩むべき道として、神があらかじめ用意してくださった善い行ないをするようにと、キリスト・イエスのうちに造られたのです」(エフェゾ2,10)。
15 「なぜなら、私たちは神につくられた者であり……」。司祭は普通とは違う新しい人である。「再び生まれる」という第二の誕生(訳注、洗礼)だけでなく、パウロは神の人である。なぜならパウロはつくり変えられて、豊かな恵みを受け、キリストに結ばれて、神ご自身の仕事に協力するようになったからである。つまり、「あわれみに満ちているおかた」(神)のお恵みにあふれて、つくり変えられたパウロは迫害者から使徒となったのである。
どんな司祭であれ、その使命にかなった人は恩恵の奇跡である。司祭は罪に対しても、悪魔に対しても命令する。司祭が(罪の)ゆるしをあたえれば、神でさえも、これに従うのである。世の人は司祭を脱俗した者として見る。そしてすべてが、だめになったときでさえ、まだ司祭に希望をつなぐ。聖香油は司祭候補者をまったく神に所属する者に変えたのである。なぜなら神からつくられた者、すなわち新しい者としてつくられたからである。
16 司祭は神事にかかわる。司祭に任された神事にかかわる。司祭は神に向かって、こう歌う。「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈り、賛美の歌を歌うと、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(使徒 16,25)聖務日祷(訳注、教会の祈り)は神の作品である。司祭の祈りは一般信者の祈りとは、たいへん違っている。
それは人々を動かして、神を賛美させる。「私はあなたのみ名を私の兄弟たちに告げ」と。司祭は神のことを告げ知らせる者であり、伝達する者である。
神の権利を護り、人々を神へ導く。司祭がいなければ、金の小牛やバッカス(酒神)やヴィーナス……が礼拝される。このためキリスト教以前は、異教世界であった。司祭が黙っている所では、このような状態であった。司祭は神──キリストである。司祭が遠ざかる
ならばその代わりに悪霊であるほかの神々が人々の間に入り込む。恩恵を取り除けば、人の心に悪霊が入ってくる。
司祭は「さあ、起きあがって、立ちなさい。私がおまえに現れたのは、おまえが今見た私のこと、また、これから私が示そうとしていることについての奉仕者、また証人とするためである」(使徒 26,16)。
17 司祭は神に誓約して、これに義務づけられた人である。司祭は神のためにある。「私のためにサウロとバルナバとを選び出せ」。司祭は神のために生き、肉欲のためでもなく、人間的な利害のためでもなく、地位とか名誉のためでもない……。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」(Ⅰティモテオ 6,11)。「盗むなというおまえが盗めば」それはなんと嘆かわしいこと、顔向けのできないことであり、すべてをだめにしてしまう。司祭はもっぱら神のために存在している。「ところで神の人よ、あなたは信心に力を入れなさい」「私たちのしあわせは天にある」。
司祭は神と親しくつきあう者でなければならない。この世を回心させるのは本当に神のものとなった人だけができることである。司祭は神のベニアミン(秘蔵つ子)である。神は司祭を護り、慰め、司祭としての聖性を与える。司祭は神にとっては最も大切な者である。ペトロがキリストに支えられて波の上を歩いたように、司祭はたとえその足もとで、世が騒いだとしても平和に生きる。
司祭は、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。生きるにしろ、死ぬにしろ、わたしたちは主のものなのです」(ローマ14,8参照)それで、高貴さ、感謝、謙遜、応答。
師イエスに向かって
18 あなたのあわれみは限りがありません。私はそのあわれみをすべて理解できません。それに疑い深くなるよりは、むしろ私はひざまずいて礼拝したいのです。私はこんなにも貧弱で、大きな罪びとですのであなたの期待を裏切るのをあなたは予知していたにもかかわらず、どうしてこの私を「神の人」である司祭にするために選ばれたのでしょう。それはまったくただあなたのあわれみによるものです。
私は神の一つの奇跡です! あなたの無限のあわれみが私を司祭職へ導いたのです。!「わたしが今日あるのは神の恵みによることであり」(Ⅰコリント 15,10)叙階式は十二使徒を変えたし、また私を新しい存在、地上にある神にしました。
私はキリストと同一人物になりました。彼の関心事は私のものです。かれの意向は私のものです。私は、かれのことばを語ります。私の教えは彼のものであり、私の生命はキリストの生命です。私はキリストのわざを果たします。否、むしろ私に代わってそれを果たすのはキリストです。「ペトロが洗礼を授けた。だがキリストが授けておられるのである。ユダが洗礼を授けた。だがキリストが授けておられるのである」(聖アウグスチヌス)。私は神に借りのある者です。私はイエス・キリストに倣って生きなければなりません。私は彼の誉れとなるものだけに専念しなければなりません。「私が父の家にいるのは、あたにまえでしょう。ご存じなかったのですか?」(ルカ2,49参照)。
私のすべての恥ずべき行為、恩恵をむだにしたこと、時間をむだにしたことおゆるしください。
ロザリオの祈り、ミゼレレ。
・『霊的生活の模範 使徒聖パウロ』(ヤコブ・アルベリオーネ著、池田敏雄訳)1987年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。