私は自分の源であり、目的であり、審判者である神を礼拝する。私は神のいつくしみに感謝し、これをたたえる。過去、現在、未来においてもそうである。私は痛悔する。私は自分の司祭職についてイエスに報告するために、ここにいる。私は全面的な回心、つまり知恵と意志と心の回心を願う。神が私を、ご自分の望みどうりの人間にしてくださるように。神が罪を憎むのと同じように私も罪を憎み、使徒と同じように神のみ旨を果たす人にしてくださるように。(アルベリオーネ神父、1947年)
1「ですから、神に愛された子として、神に倣う者となりなさい」(エフェゾ5・1)。
私は神の子であるからして、おん父に似なければならない。それはおん父の気にいるためである。おん父の目の中に入れても痛くないおん子がイエス・キリストであった。「これこそ、私の愛する子である」と。もし、キリストが私の中で──知恵、心、意志に──生きていてくださったら、おん父は私の中にイエス・キリストを見ただろう。私はおん父に気にいったろうに……。でも私はキリストの分身ではない。私の知恵も心も意志も……。
2「ですから、どうかわたしに倣う者になってください」(Ⅰコリント4,16)
聖人であり、司祭であり、使徒である人間らしいタイプから非常に大きな利益を引き出すことができる。
キリストを模倣するにはパウロを模倣しなければならない。ただの人に過ぎない者がキリストと同じような「聖者、司祭、使徒」にどうしてなれるかがわかるには、パウロを模倣しなければならない。
「わたしたちをどのように見倣うべきか、あなたがたにはわかっているはずです」(Ⅱテサロニケ3・7)。
すなわちキリストがどのように活動したかをみるために。
パウロは私たちにとっては命であり、教えであり、仲介者であり、取り次ぎ手である。
3「それは生活を支えてもらう権利がないからでなく、私たちの模範にあなたがたが見倣ってほしかったからです」(Ⅱテサロニケ3・9)
私たちが大いに必要としているのは、キリストを生かすこと、私の中にキリストを再現させることである。私たちの会の人たちや読者や人々が私たちの生涯の中にキリストの生涯つまり福音を読むことができるようになるためである。
パウロのことばにしても、キリストのことばにしても、それが書かれたものであっても、話されたものであっても、公のものであっも、個人的なものであっても、その生涯を黙想しなければならない。
公私の生きかたを、パウロに学ばなければならない。それはキリストの生きかたそのものとなるためである。
私は祈りや使徒職をパウロの祈りや使徒職に学ばなければならない。それはキリストの祈りや使徒職となるためである。パウロを通し、キリストにおいて祈り、活動しなければならない。
・目的──私たちは、あなたがたを育成しよう。
・祈り──喜びの秘義、ミゼレレ
師イエスに向かって
4 私は、自分の生涯や私の司祭職や特別の使命をどのようにしたか、あなたに報告するために、今、聖ひつのみ前におります。無限のいつくしみである神よ、私が悪意に凝り固まり、毎日、絶え間なく、あなたに耳を貸さず、心を通わせることもしないのに、あなたは挑戦することをあきらめず、私をとらえられました。ちょうどサウロをとらえたように。私は屈伏します……。つねにあなたのみが、私にとってすべてであり、あなたのうちに、あなたのためにだけに私が生きることがてきますように。
師よ、およゆるしください。黙っていないでください。あなたは私にお語りになるために、私をこの孤独に導いたのだと思います。私を照らしてください。
師よ、およゆるしください。あなたがペトロやマリア・マグダレナやマタイやトマにあわれみをかけられたように。私をあわれんでください。この放蕩息子、このとるに足りない司祭、あなたのすべてのご計画とみ旨に対して、この不忠実なしもべを、どうか迎え入れてください。
「すべて善いものを浪費しました」……自分の知性も心も時間も力も交際も援助も健康も資産も。
私にも徳も、あなたが要求される信仰も、十分な信心も、神と人々への熱意もありませんから、すべてを建て直さなければなりません。
私の中にあなたご自身を復興してください。あなたのお望みのとおりに自由になさってください。私のうちに、「キリストが形造られるまで」(ガラテア4,19参照)この、こわれたがらくたである私に働きかけてください。
聖師のみ心よ、あなたに信頼します。
聖母のみ心よ、あなたに信頼します。
・『霊的生活の模範 使徒聖パウロ』(ヤコブ・アルベリオーネ著、池田敏雄訳)1987年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。