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これってどんな種?

信じますという種 四旬節第5主日(ヨハネ11・1〜45)

 私の両親は、父が先に亡くなりその8年後に母も亡くなりました。しかし、ショックはありましたが、不思議と悲しいという気持ちはありませんでした。それは、二人とも天国に行っていると感じていたからだと思うのです。

 きょうのみことばは、イエス様が病気で亡くなったラザロを生き返らせる場面です。ルカ福音書にもマルタとマリアの話が出てきているように(ルカ10・38〜42参照)、イエス様とこのベタニアの兄弟姉妹とは、とても身近な間柄だったのではないでしょうか。ですから、「主よ、あなたが愛しておられる者が病気なのです」という知らせを聞かれたイエス様は、ラザロのことが心配ですぐにでも行きたかったことでしょう。しかし、イエス様は、「この病気は死ぬほどのものではない。神の栄光のためのものであり、神の子はそれによって栄光を受けることになる」と言われて、そこに2日間も留まられます。イエス様は、「神の栄光」と「神の子の栄光が受ける」ために、その場所に留まられたのでしょうが、とても辛くて、忍耐を持って過ごされたことでしょう。

 イエス様は、弟子たちに「……わたしは彼を眠りから覚ましに行く」と言われてベタニアに行くことを決心なさいます。それは、「あなた方が信じるようになるためである」と言われるように、人々がイエス様をメシアであることを【信じる】ためだったのです。イエス様は、ご自分がエルサレムに行くこと、そして、ラザロを生き返させることによって、ご自分が「死ぬ」(ヨハネ11・50参照)ということをご存知だったのですが、それでも、おん父のみ旨を果たすために「ともかく、ラザロの所に行こう」と言われてベタニアに行かれます。

 ベタニアでは、マルタとマリアがラザロの死を悲しみ、多くの人々が彼女らを慰めていました。マルタは、イエス様が来られたことを聞いて迎えに行き、「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、……神がかなえてくださると、今でもわたしは知っております」と自分の悲しい心をイエス様に告げると共に、イエス様への信頼の心を打ち明けます。私たちは、身内の中で事故や災害に巻き込まれた時、または、重い病気に罹って亡くなった時、マルタやマリアのように「主よ、もしここにいてくださったなら、わたしの……かなえてくださると、今でもわたしは知っております」ということができるでしょうか。

 イエス様は、マルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない。このことをあなたは信じるか」と言われます。マルタは、イエス様のこの質問に「……メシアであると、わたしは信じております」と答えます。本当にマルタは、イエス様を愛していたことでしょうし、心から信じていたのではないでしょうか。このことは、マルタの信仰告白と言ってもいでしょう。私たちは、洗礼を受けるとき司祭の「……全能の、神である父を信じますか」「……父の右におられる主イエス・キリストを信じますか」「……からだの復活、永遠のいのちを信じますか」という問いに「信じます」と答えます。この【信じます】というのは、三位一体の主への信頼と変わらない【愛】を表しているのではないでしょうか。今一度、私たちが洗礼の恵みを頂いたことを振り返ってみることもいいのかもしれません。

 マルタは、イエス様に信仰告白をした後で、マリアの所に言ってイエス様が来られたことを伝えます。マリアは、すぐに立ち上がりイエス様の所に行って足元にひれ伏してマルタが言ったように「主よ、もしここにいてくださったなら、……」と泣きながら心の内を伝えます。イエス様は、彼女らや一緒に来た人が泣いているのをご覧になられ、「心に憤りを覚え、張り裂ける気持ちで、『ラザロをどこに置いたのか』」と言われます。イエス様は、彼らに連れられてラザロの墓に行かれ、石を取りのぞかせられ「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。……周りにいる人たちのためにこう申したのです。彼らに信じさせるためです」とおん父に祈られます。

 イエス様は、おん父のみ旨に忠実でおられると共に、全幅の信頼を持っておられました。人々は、イエス様のこの祈りを聞き「ラザロ、出てきなさい」と言われ、ラザロが出てきたのを見たとき、イエス様とおん父との深い絆、信頼関係を感じたことでしょう。イエス様は、このことを人々に伝えるために、ラザロが亡くなるまで待たれ、「神の栄光のためのものであり、神の子はそれによって栄光を受けることになる」と言われたのではないでしょうか。

 イエス様は、おん父への祈りと「ラザロ、出てきなさい」という言葉によってラザロを生き返らせることでおん父の栄光を表されました。パウロは「キリストを死者のうちから復活させた方は、……あなた方の死ぬべき体をも生かしてくださるのです」(ローマ8・11)と言っています。私たちは、洗礼の恵みによって【復活】し、【永遠の命】をいただく恵みをいただきました。イエス様は、「わたしは復活であり、命である」と言われておられます。私たちはイエス様に倣う者として復活を信じ、また、洗礼の時の【信仰告白】の「信じます」ということを思い起こし再び三位一体の主とともに歩んでいくことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  2. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

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