パウロが言う「義」がしっくりこないのは、この言葉を通して私たちが受けとる内容と、パウロがこの言葉にこめた内容とが異なるからではないでしょうか。
「義」という文字を通して、私たちは日本語の「義」が持っている意味を受け取ります。いっぽう、パウロは日本語を知りません。パウロはギリシア語の世界に生きていましたから、ギリシア語の「ディカイオスネー」という言葉に彼の思いを込めて「義」を語りました。この言葉には、ギリシア文化において培われた意味が込められています。それは、「正義・誠実・正しさ」などの同義とみなされている意味で、「ディカイオスネー」は、ひとつの「徳」を表す倫理的な意味合いの強い言葉です。日本語の「義」も、「ディカイオスネー」と同じように、ひとつの「徳」を意味する、倫理的な意味合いの強い言葉です。この意味で、「ディカイオスネー」と日本語の「義」は、よく似ています。
しかし、パウロは「ディカイオスネー」にもう一つの意味を込めました。それは、「神さまの救い」と結びつけられた救済論的な意味です。つまり、「義」は「救い・解放・恵みの業」を意味し、「神の義」は、「神の救い・神の恵みの業」を意味しています。同様に、「義とされる」は、「救われる・解放される・神の恵みの業にあずかる」ことを意味します。いずれも、「神さまの救い」と結び付けた意味で用いられていますから、救済論的な意味と言われます。
パウロは、この救済論的な意味をユダヤ教から受け継ぎました。ヘブライ語の「ツェダカー」という語は、しばしば「義」と訳されていますが、このヘブライ語は、「正義・公正さ」といった、「ディカイオスネー」に共通する、倫理的な意味を持つと同時に、「救い、恵みの業」といった、救済論的な意味も持つ言葉です。
パウロは、ユダヤ教文化で育ったユダヤ人でしたから、「ディカイオスネー」というギリシア語を使うときに、しばしばユダヤ教文化における、救済論的な意味をこの語に盛り込んだのです。パウロの「義」を理解する秘訣は、それをユダヤ教文化にもとづいて、救済論的に理解することです。
日本語の「義」には、倫理的な意味しかなく、救済論的な意味が皆無であることを、肝に銘じる必要があります。よほど注意していないと、私たちは「義」を倫理的意味合いだけで理解してしまいます。
パウロの「義」を、倫理的な意味で理解する限り、パウロの「義」は理解できません。パウロが「義」という時、思い切って「救い」と置き換えて読むことをお勧めします。