雲を見分ければ、天候などの判断がスムーズです。逆にこれを甘く見ると、たいへんな失敗に陥ります。
かれこれ35年前になるでしょうか。あるブラザーとともに長野県の白馬にある八方尾根を通り、五竜岳、鹿島槍ケ岳に登った時のこと。風が強く天候が変わりやすい状況でした。フーフー言いながら鹿島槍ケ岳の頂上に立ち、冷池山荘方面へ向かって歩き続けると、稜線を境に雲がきれいに分かれていました。長野県側は曇り、岐阜県側は雲一つない晴れ。風は西の岐阜県側から東の長野県側に吹き、長野県側の雲がワクワクと上昇してくるのですが、岐阜県側からの風で消されている状況でした。このように雲が消える時はよい天気だと言います。それに対して、長野県側の雲が岐阜県側に流れていくと天気が悪くなると言います。別の機会に、後者の体験をしてことがありますが、まさにそうでした。
失敗した例ですが、その数年前、同じメンバーで北アルプスの唐松岳から不帰(かえらず)のキレットを通って天狗小屋、白馬鑓ケ岳、白馬山荘へと歩いた時のこと。キレットの所では雨が降ったりやんだりの天気、しかもアップダウンが続き、やっとの思いで12時ごろ天狗小屋に到着しました。先へ急ぐか、あるいは今日はこの小屋に泊まるかを思案。雲行きを見ながら素人の考えで先へ急ぐことにしました。それから一時間たったでしょうか。黒い雲が厚くなり、さらに雨が降り始めました。最初はにわか雨程度だったのが、そのうちに豪雨。おまけに雷まで鳴り始めました。天狗小屋へ引き返すにも中途半端な距離で、結局白馬小屋まで急ぐことにしました。雷が鳴る中での歩行は、生きた心地がしませんでした。やっとの思いで午後4時30分ごろ小屋に着き、ほんとうにほっとしたことがあります。まさに雲行きの判断を誤った歩行でした。後で知ったのですが、その日、槍ケ岳の頂上で二人の方が雷に打たれ、即死しました。
今日の箇所で雲が弟子たちを覆います。それは神の現存を体験する機会ともなりました。彼らはどんな思いで、雲の動きを見たのでしょうか。