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キリスト教知恵袋

マリアとパウロについて

 パウロはマリア様と出会ったことがあるのでしょうか?

 パウロとマリア様とが、二人で話をした可能性は大いにあります。パウロは何度もエルサレムを訪問しています。その時、マリア様と出会って、話をした可能性は大いにあります。ただ証拠がありません。パウロは二人の出会いについては何も書いていません。

 パウロはマリア様について、一度だけ次のように書きました。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4・4)。このパウロの書き方は、マリア様に対する特別の思いを感じさせるものではありません。

 おそらくパウロは、マリア様と出会っていても、イエス様の母であるということには、特別の関心を払わないようにしたと思われます。というのも、パウロは家柄だとか家系など、人間的なことに縛られないように注意していたからです。パウロは「わたしたちは、今後だれをも肉に従って[人間的に]知ろうとはしません。肉に従って[人間的に]キリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(二コリント5・16)と言い切っているからです。

 パウロの手紙の中に、イエス様の教えや奇跡など、イエス様の地上でのお姿が、ほとんど書かれていないのは、このためでしょう。こんなパウロでしたから、マリア様がイエス様の母であるという人間的な絆に、パウロが関心を払わなかったのは、ある意味当然でした。またこの当時、マリア様は「神の母」であるという信仰は、まだ生まれていませんでした。

 パウロは回心によって、「新しい人」になるという体験をしました。これは何よりも内面的な体験でしたが、同時に、この体験によって、パウロはそれまで持っていた肉親との絆や同胞との絆を、すべて失ったと考えられます。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いました」(フィリピ3・8)という言葉が、そのことを暗示しています。

 また、回心の体験は、パウロがそれまで大切にし、誇りにしていた人間的な絆を、相対化する「新しい視点」を、パウロに与えました。パウロが、イエス様の家柄や、人間的な側面に注意を払わないことも、母であるマリア様に、特別な関心を払わないことも、回心によってパウロに与えられた「新しい視点」とつながっていると言えます。

 それにしても、パウロとマリア様は、どんなお話をなさったのでしょう。パウロがマリア様のことをもっと書き残してくれていたら、どんなにか素晴らしかったでしょうに!

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