後継者たち
プリモ・マエストロは私たちを援助するために、すでに東京で誓願を宣立していたキム・ロレンツォ修道士を、韓国における最初の志願者(ほとんど修道士志願)の養成指導のために同国に派遣した。しかしこの試みは痛ましくも失敗し、それだけでなくこの若い修道士までが修道会を去る事態になってしまった。
事態はいっそう深刻となり、志願者のグループも減っていった。それには三年間という韓国の徴兵制度にも一因があった。そしてローマからは、イタリアでもよく知られ、私も高く評価していた若き司祭、フェルディナンド・ベッレッティ神父が派遣されてきた。
彼は熱意と決意とをもって、私たちと困難な生活を分かち合うために韓国に来た。そして今後は、言葉の点でも彼は韓国語を学ぶ必要があった。しかし数日後、ベッレッティ神父が食べ物を飲み込むこともできず、ましてや眠ることも静かに勉学に専念することもできない病気にかかっていることが判明した。ソウルにいる優秀な韓国人、アメリカ人、そして日本人の医師たちにも診察してもらったが、彼らはみな、異口同音にこう言った。
「診断上の病気は見られないが、この人は栄養失調と睡眠不足で死にます」と。
私はアメリカ軍のチャプレンたちに頼んで、進駐軍(毎年、約十万人のアメリカ軍の大部隊が交代で韓国に駐留していた)の軍医大佐に、ベッレッティ神父の診察を依頼した。
彼はひと言、次のように答えた。
「原因はただちに特定はできないが、新しい環境に順応できない状態になった時、約千人に一人の割合で見られるケースだ。そのための治療法はただ一つ。この患者を墓場か精神病院に送りたくなければ、即刻祖国に帰すことである」と。
それはまさに数年前に東京で、イエズス会のある管区長が管区長会議の席で、この症状の重大性について注意を払うように話したとおりのものであった。
私はベッレッティ神父が自分の腕の中で死ぬのを見ないためにも、彼を帰国させざるを得なかった。祖国に帰った彼は、まるで魔法のようにめきめきと健康を回復した。
ただ彼は、医療の専門家でない人たちが、自分の病気を「祖国に帰るための芝居」だと疑ったことにとても傷つき、それを深く悲しんでいた。