1927年4月16日、ドイツ・バイエルンのマルクトル・アム・インに生まれる。(本名は、ヨゼフ・アロイジウス・ラッツィンガー)お兄さんも司祭になる。
1951年6月29日に司祭叙階。
1953年、神学博士号を取得。4年後、大学教授資格を得る。
1962年、第二バチカン公会議顧問になる。(35歳)
著書には、『キリスト教入門』(1968年)、『教義と啓示』(1973年)
1977年3月25日、パウロ六世によりミュンヘン・フライジング大司教に任命される。
1977年5月28日、司教叙階。教区司祭がバヴァリア教区の司教となったのは80年ぶり。
1977年6月27日、パウロ六世により枢機卿に親任された。
1980年、第五回シノドス報告者。
1981年11月25日、教皇ヨハネ・パウロ二世により教皇庁教理省長官、聖書委員会・国際神学委員会委員長に任命された。
1982年2月15日、ミュンヘン・フライジング名誉大司教。
1983年、第六回シノドス議長代理。
1986年~1992年、『カトリック教会のカテキズム』編纂委員会委員長。
1998年11月6日、枢機卿団首席枢機卿代理に選出される。
1999年11月10日、マリア・サンティッシマ・アスンタ自由大学名誉法学博士。
2000年11月13日、教皇庁科学アカデミー名誉会員。
2002年11月30日、首席枢機卿となる。
2005年4月19日、第265代教皇に選出され、ベネディクト十六世を名乗る。ドイツ人の教皇選出はヴィクトル二世(在位1055年~1057年)以来950年ぶり。
2013年2月28日、教皇を退任。存命中の退位表明はグレゴリオ十二世(1406年~1415年)以来、598年ぶり。
2022年12月31日、帰天。享年95歳。
*2005年5月ごろ、イエズス会のヨゼフ・ピタウ大司教さんに教皇ベネディクト十六世についてお話を聞いたことがあります。その中で、
1980年の終わりごろ、ピタウ大司教さんはイエズス会の総長代理補佐に任命され、総本部で働いていました。イエズス会には数多くの大学、神学部があり、各部署との相談・報告などのため、毎週一度はラッツィンガー枢機卿と面会していた。その後、ピタウ大司教はグレゴリアン大学の学長やバチカンの教育省局長になった時も、信仰や教育の問題、大神学校の教育の問題、神学者の書物などについて、お話を聞いていた。
ラッツィンガー枢機卿は自由な雰囲気がとても好きで、よい意見や答えがあれば、「ありがとうございました。私はそれを考えなかった」と謙虚に受け入れていた。
ドイツ語、英語、イタリア語、ラテン語、フランス語など、教会の主な言語に熟達していて、紳士的で、物事を冷静に考え、深い知識があり、信仰、教会を愛する人でした。種々のメディアでは「厳しい」「保守的」との論評があったが、実際はそうではなかった。いつでも「対話」を重視し、どんなに時間がかかっても、「対話」に開かれた方だった。
バチカンの内部で長く働かれた方なので、バチカンの内部のことに熟知し、とても親切で、上から命令するという方ではなかった。一人ひとりを大切にし、人間の自由と尊厳が守られるように働かれた方。78歳で教皇になられたけれど、とても元気だった。音楽が好きで、典礼がとてもきれいだった。お兄さんは司祭で、オルガンを演奏されていた。
とても暖かい人柄で、知識も体験も豊富な文化人。相手の意見をよく聞いて、教会を導かれていく方だった。