何十年前に「幸せーって、何だっけ、何だっけ」という醤油の宣伝がありました。私たちにとって【幸せ】とは、何なのでしょう。お金持ちになることでしょうか。権力を持つことでしょうか。それとも、好きな人と一緒にいることでしょうか。『桜色の風が吹く』という映画の中で、失明し聴力も失った主人公が「障がいがあって不便ではあるが幸せだ」のようなことを言っていました。五体満足であっても不幸な人、裕福な生活をしていても満たされない人はいることでしょう。改めて【幸せ】とは何なのかを振り返ってみるといいかもしれませんね。
きょうのみことばは、「山上の説教」(5・1〜7・29)と言われるイエス様の長い垂訓の始まりの部分で、「真福八端」と言われるものです。とても、きれいな韻で流れるようなものですが、一節一節を繰り返しゆっくり黙想していくと、「この教えは私にできるのだろうか」という感覚が生まれてきます。
イエス様は、弟子たちと共にガリラヤ全土を巡り、会堂で教え、天の国の福音を宣べ伝え、民のすべての患いや病気を癒やされます(マタイ4・23参照)。教えを受け、癒やされた彼らは、イエス様に従って行きます(マタイ4・24参照)。イエス様は、ご自分に従って来た彼らと共に山に登られ始めて説教をされるのがきょうの箇所です。みことばの始めに「イエスはこの人々の群れを見て、山にお登りになった」とあります。マタイは、モーセがシナイ山でおん父から【十戒】を頂いてイスラエルの民に掟を示したように、イエス様が【山に登られ】人々に教えを伝えられたと記しているようです。
みことばは「腰を下ろされると、弟子たちが近寄ってきた。イエスは口を開き、彼らに教え始められた」とあります。イエス様が【腰を下ろされると】というのは、ただ単に座ったという意味ではなく、ユダヤ教のラビが人々に何か教えを伝える時の所作だったようです。ですから人々は、イエス様が【腰を下ろされた】のを見て何か大切な教えを伝えるのだと気づきイエス様の周りに近寄って来たのでした。
イエス様は「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われます。このことを聞いた人々は、どのように思ったことでしょう。今の私たちがこの箇所を読んでいても、「貧しさが幸せ?」とは、すんなり受け入れることはできませんし、「天の国がその人たちのものである」とはどういうことなのかと疑問を抱く人もいることでしょう。ここで言われる【天の国】というのは、私たちが思う【天国】ではなく「おん父と共にいる状態、神の国」のことを指しているようです。
イエス様が言われる「自分の貧しさを知る人は幸いである」というのは、物質できな【貧しさ】という意味ではなく「霊において貧しい」ということのようです。私たちは、信仰をもっと豊かにしてもっとおん父に近づきたいと思っていることでしょう。しかし、今の自分状態ではとてもおん父の前に近づくことはできないほど罪深いものだ、と思われるのではないでしょうか。イエス様は、そんな私たちが罪深く、貧しいことをご存知ですから「『自分の力だけで努力し、頑張って何とかしよう』と思うのではなく、聖霊の力を借りて、おん父の所に近づくことができるのですよ」と教えられているのではないでしょうか。
次に「悲しむ人は幸いである。その人たちは慰めを受ける」と言われます。この「悲しむ」というのは、「主の恵みの年、わたしたちの神がなさる報復の日を宣言し、すべての悲しむ人を慰めるために、シオンの悲しむ人のために気遣い……」(イザヤ61・2〜3)とありますように、おん父の恵みによって慰められることのようです。
この「真福八端」の中には、「【義】に飢え渇く」とか「【義】のために迫害されている人」というように【義】が2箇所に出てきます。これは、私たちが言う「正義」というのではなく、「おん父の義」というもので、「おん父のみ旨、力、恵みなど」と言ってもいいのかもしれません。私たちの周りにあるどうすることもできない状況の中、自分の力だけではどうすることもできない「弱さ、貧しさ、苦しさ、不条理さ」を、おん父の【義】に頼るしかないと思って祈る時、おん父からの【恵み】を頂けるという【幸せ】を受けることができるし、【天の国】の状態に近づくことができるのではないでしょうか。
イエス様は、「わたしのために人々があなた方をののしり、迫害し、……あなた方は幸いである。喜び踊れ。天におけるあなた方の報いは大きいからである」と言われます。私たちは、洗礼の恵みを受け、福音を伝える使命を頂きましたが、それを行おうとするとき、軽蔑され無視され、時には身の危険に晒されるという困難にもあうことでしょう。そのような時にこそ「喜び踊れ」と言われます。
きょうのみことばは、自分たちの力だけでは、難しいことばかりです。ですから、聖霊の力、イエス様の導きによっておん父へと向かうことができるのではないでしょうか。私たちは、「頑張らねば」と自力で何とかするのではなく、肩の力を抜いておん父に委ね「真の幸せ」を頂くことができたらいいですね。