水は命を生きるすべての生命体にとって大切なものですが、それは水の持つ二つの自然的特質〈潤す・洗う〉によります。そこから宗教の世界では再生と浄化のシンボルとして、儀礼に欠くことのできない重要な要素として水を取り入れました。例えば神道の禊(= 浄化・清め)や仏教の灌頂(=新生・再生)などがこれにあたります。(参考:樋口清之『日本人はなぜ水に流したがるのか』MG出版/1989)
時代や民族、そして文化がどんなに進歩したとしても、人間の水に対する思い、関わり方に相違はありません。
聖書は救いの歴史のダイナミックな流れの中で、水が神への信仰を生きるイスラエルの民にとって、いかに重要なシンボルであったかを語ります。
光と闇を分けた神は、大地と水の間に境を置かれ、万物を正しく配分されました。水は神の権限のうちにあります。これによって神の民は清められ、聖とされ、万物は命を得ることができるのです。ノアの洪水や紅海の渡航物語などは見事にそれを示しています。
つまりイスラエルの民にとっても水は命の源であり、浄化のシンボルです。やがてこれが新約になるとイエスこそ命の泉、生ける川の水であるとの信仰へと展開し、ついに洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼から、三位の名による浄化と新生をもたらす新約の洗礼へと発展したのです。
以上を考慮して、聖水の意味と使われ方を教会の歴史の中に探れば、古代から祭儀前や祭儀中に手を洗い清め、人や物に注いで祝福したり、などその用途は多様です。四世紀代になると信徒も聖水で身を清めてから聖堂に入るようになりました。用途の目的は多くの場合、歴史的には浄化のニュアンスが強かったのですが、典礼刷新以降は洗礼の想起として用いられます。特に祭儀における司祭の灌水式などはこれにあたります。また一般の方が聖水を使ったとしても何の問題もありません。水の持つ特質は誰もが知り、それを尊重して受けるなら神はその人を祝されるのです。環境が論議される昨今、私たちこそ一滴の水の尊さをキリストのうちに再確認したいものです。(『聖書思想事典』三省堂/P.789〜、『新カトリック大事典 3』研究社/P.723)
・回答者=南雲正晴神父