羊はパレスチナの地域にとって主要な家畜、財産、生活を支えるものです。イスラエルの民も食糧、乳、羊毛など、種々の形態で用いていました。まさに生活に密着した動物です。また羊は天幕の覆い、取引の際の交換物としても用いられていました。祭儀に際しては、焼き尽くす献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物、和解の献げ物、犠牲の献げ物など。これらのことから、羊は生活の必需品とともに、神への献げ物として重要なものです。
聖書の中ではどうでしょうか。イザ53章では「ほふり場に引かれる小羊のように、毛を刈る人の前で物を言わない羊のように、口を開かなかった」(イザ53・7)と描かれています。苦しむしもべとしてイエスが浮かび上がってきますが、さらには羊の姿を通して謙虚さ、我慢強さが感じられます。
また出エジプト記を開いてみると、過越の小羊については、イスラエルの民がエジプト人の圧迫にあっていた時、戸口に「傷のない一歳の雄の小羊(出12・5)を一頭ずつほふり、夜それを食べて、その血を家の戸口と柱と鴨居に塗るように命じます。かつて羊の血が流されていましたが、キリストの到来により、キリスト自身の血が流されるようになります。ミサにおいて、そのことを思い起こし、再現していきます。
今日のみことばで、洗礼者ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言います。つまり、イエスが自分自身をささげることによって私たちの罪を取り除く方であることを示します。さらにヨハネは次のように続きます。「私の後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。私よりも先におられたからである」(ヨハネ1・30)。このことばは、イエスのこれからの歩みを明示します。
ヨハネの姿を通して謙虚さを、イエスの姿を通して私たちのためにいのちをささげたキリストの愛を実感することができます。