*パウロ六世の本名は、ジョヴァンニ・バッティスタ・エンリコ・アントニオ・マリア・モンティーニ。通常、「モンティーニ」と呼ばれたりする。
*1897年9月26日、イタリアのロンバルディアのブレーシアに生まれた。父は富裕な土地所有者、弁護士で、日刊紙の編集主幹で、議員も務めた。
*モンティーニはイエズス会学院を経て、1916年にブレーシア教区の神学院に入学し、1920年、司祭に叙階された。この年に、ミラノ神学院の神学部から教会法の博士号を授与され、1921年にはグレゴリアン大学で神学博士号を取得、さらに当時の国務長官代理ジュゼッペ・ピッツァルドの勧めにより教会外交官養成所で学び、1922年に教皇庁国務省に入った。
*1923年、ポーランドの教皇大使ラウリの事務官として半年間ワルシャワで勤務、これが唯一の外国での職務となった。1924年10月に国務省の事務官、1925年4月には書記官となった。
*1925年、教皇ピオ11世からイタリア・カトリック大学連盟の総指導司祭(1925年~1932年)に任命された。
主な活動は、典礼運動、社会奉仕活動(学生と共にローマの貧民地区を訪問、道徳的退廃と家庭崩壊に苦しむ人々に接する)、国際体験(夏季休暇ごとに、外国旅行を学生たちのために企画)、出版司牧宣教(文化・芸術叢書の出版、大学に出版部を設立)。
*1930年、国務省で働くようになり、後に教皇ピオ12世となるパチェリ枢機卿(国務省)に仕えた。1931年7月に国務長官秘書となり、1937年12月、国務長官代理となった。やがて、パチェリ枢機卿が教皇となり、そのまま国務長官代理にとどまり、新国務長官のマリオネ枢機卿(1939年~1944年)に仕えた。1944年にマリオネ枢機卿が亡くなり、国務長官職を代行した。
*第二次世界大戦中、捕虜・追放者についてのバチカン・ラジオ情報、避難民救済委員会などの最高責任者となった。また諸外国の使節と交流し、諸問題を公平かつ誠実に処理し、特にアメリカ合衆国のローズベルト大統領から敬愛を受けた。
*第二次世界大戦後、世界平和再建に向けて活動し、1950年に「聖年の宣言」、1951年に信徒使徒職に関する大会の開催、1952年には映画委員会の設置、1954年に「聖母マリア年」の宣言などがある。1952年にモンティーニは枢機卿に親任される予定だったが、辞退した。
*1954年、病床のピオ12世教皇は、ミラノ大司教シュステル枢機卿の後任としてモンティーニを任命した。12月12日に司教に叙階された。ミラノの教会は、1943年の空襲によって多くが破壊されたが、イタリア各地からの移住により、人口が増加。彼は大司教区の組織の再編、教会の修復・再建に努めた。
主な活動は、社会的使徒職(社会養成学校の設置、無料医療センターの創設、労働者の生活改善など)、大宣教事業(カトリック要理教育に尽力、自ら毎日ラジオ放送を行う)、福音宣教事業(福音宣教事務局を設置、宣教雑誌の創刊)、カトリック教育の推進、世界宣教(アフリカなどを視察)
*1958年にピオ12世が亡くなり、モンティーニは枢機卿ではなかったが、教皇の候補者に挙げられていた。ヨハネ23世が教皇となり、この年にモンティーニは枢機卿となった。モンティーニはしばしば海外を視察し、スラムなども訪問し、世界の現実を目にした。1962年に第二バチカン公会議が始まる。
*1963年6月3日、ヨハネ23世が亡くなり、モンティーニは教皇に選出され、「パウロ6世」となった。教皇となって、全世界に最初のラジオ声明を発表し、ヨハネ23世教皇の目標などを継承することを公約した。
*在位中の主な活動
①1965年12月8日、第二バチカン公会議の完了を告げた。
②キリストの平和を求める旅。聖地を訪問し、1964年にはインドでの国際聖体大会に出席、1965年10月には国連で演説。
③教皇庁の改革
④世界代表司教会議(シノドス)の開催。
⑤世界との対話(キリスト教一致推進
*教皇文書
①「エクレジアム・スアム」
②「司祭の独身制について」
③「諸民族の進歩推進について」
④「聖マリアの信心について」
⑤「福音宣教」