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これってどんな種?

まことの光という種 主の降誕(ヨハネ1・1〜18)

 町には、イルミネーションが輝きクリスマスツリーが飾られ、皆んなクリスマスを待ち望んでいます。その中の何人が、イエス様の誕生日の本当の意味を知っているのでしょうか。洗礼の恵みを頂いている私たちは、まだイエス様を知らない人たちに少しでも知ってもらえるように祈ることができたらいいですね。

 きょうのみことばは、ヨハネ福音書の序章の部分です。この箇所を読むとき、私が小学生の頃、母から「みっちゃん、ここに書かれた【み言葉】ってなんだかわかる」と言われたことを思い出します。初めは何のことだろうと思っていました。何度読んでも、分かるような、分からないような何だか不思議なむず痒さがあって、私が「分からない」と答えると母は「イエス様のことだよ」と教えてくれました。その時の感動は今でも残っています。

 最初の節から「初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった。」と始まっています。このことは、創世記の初めを想起するような場面です。イエス様が【神】であり、おん父である【神】とともにおられるという本当に不思議で分かりづらい出だしです。ただ、ここにおん父とおん子である【神】の豊かな【アガペの愛】の姿を感じることができるのではないでしょうか。

 みことばには、「すべてのものは、み言葉によってできた」とあります。私たちを含め、私たちの周り、全宇宙のすべてのものが【み言葉】によって創られたのです。私たちは、【み言葉】が創って下さったこの地球で生きていると同時に、私たちはすべてこの【み言葉】の【アガペの愛】によって生かされているということではないでしょうか。

 「み言葉の内に命があった。この命は人間の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった」とみことばは続きます。この【光】というのは、イエス様全体と言ってもいいでしょう。私たちは、真っ暗な闇の中にいるととても不安な気持ちになり、前後左右のどちらに行けばいいのかも分からないという怖さも襲ってくるのではないでしょうか。しかし、【光】があると「そちらの方向へ進むことができる」という安心さが起こり、希望も見えてくることでしょう。私たちは、この【光】によって進むべき【道】を歩むことができるのです。みことばには、「すべての人を照らすまことの光はこの世に来た」とあります。私たち一人ひとりは、イエス様によって照らされた【光】によって導かれ生きているのではないでしょうか。そして、この言葉が今日お祝いする「主のご降誕」と言ってもいいでしょう。

 福音書の中で、イエス様のご降誕が書かれているのは、ヨゼフ様を中心にしたマタイ福音書とマリア様を中心にしたルカ福音書です。どちらも、イエス様のご誕生の様子が目に浮かんできますし、映画や絵画、そして教会や家庭に飾られた馬小屋の場面で慣れ親しんでいるものです。しかし、ヨハネ福音書には、そうした場面は出てきません。私たちは、ただこの「すべての人を照らすまことの光はこの世に来た」という一節を黙想するときに、イエス様がおん父よってなぜこの世に遣わされたか、私たちの中にある【闇】の中に【信仰・希望・愛】を与えてくださるか、ということを味わえるのではないでしょうか。

 さて、残念なことにせっかくこの世に【み言葉】であるイエス様が来られたのに、この世の民は「認めず」「受け入れ」もしなかったのです。これは、私たちのエゴがここにあるのではないでしょうか。私たちの中に【傲慢】な気持ちがある時、イエス様の【アガペの愛】を知らない間に遠ざけてしまっているのです。「しかし、み言葉を受け入れた者、その名を信じる者には、神の子となる資格」が与えられるのです。イエス様は、私たちの弱くて脆いところをご存知です。ですから、もし、私たちが【傲慢】なエゴに走ってしまったとしても、イエス様の方向に向き直って、受け入れ、信じる時【神の子】となる資格を与えてくださるのではないでしょうか。

 みことばは、「み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった。……独り子は恵みと真理に満ちていた」と再びイエス様がこの世にお生まれになられたことを示され、そのイエス様がどのようなお方であるかを伝えています。イエス様は、私たちが生きる中で必要な【恵み】を下さるお方です。イエス様は、私たちが辛くて不安で苦しんでいる時、【恵み】をくださいます。イエス様は、私たちが迷っている時、【真理】を示してくださいます。私たちは、これほどの豊かな【アガペの愛】を頂いているのです。

 みことばは、「われわれはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」とあります。イエス様は、私たちが罪深くて、小さく、弱い者であっても、最初からこの豊かな【アガペの愛】の恵みを溢れるほど与えてくださったのです。

 私たちは、「主のご降誕」を「華やかな日」として祝うだけではなく、神である【おん子】の豊かな【アガペの愛】を味わいながら過ごすことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

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