日本での十八年におよぶ宣教活動の後、創立者アルベリオーネ神父は一九五二年、私をイタリアに呼び戻した。その翌年、彼は私を数カ月間スペインに派遣し、一九五四年には外国語を教えるようにとパリの聖パウロ修道会志願院に派遣した。私はそこで院長のアントニオ・ブロッサ神父を補佐して新しい建物を完成させ、十二年間若者たちの間で働いた。
パリの次は数年間、ロ―マの「ジェズ・ボン・パストーレ」の聖パウロ修道会の小教区で司祭職の務めを果たし、最後は創立者が帰天する前の年、アリッチャ(ローマ)にある黙想の家「聖師修道院」へと派遣された。
私はすでに齢八十を越えた。この人生の終わりの時期にあたって、イタリアで、またその他の国で、聖パウロ修道会の創立者にして「神のしもべ」*の尊称を持つアルベリオーネ神父の模範に倣いつつ、神のご意志を行うように努め、司祭の役務を忠実に果たし、祈りつつ、自分の魂の救いに努めたいと心から願っている。(「神のしもべ」:「聖人」に挙げられる段階で最初に与えられる尊称のこと。バチカンによって列聖調査が正式に開始されると、その人には「神のしもべ」という尊称が与えられる。)
監修者注:ロレンツォ神父は日本を去って二十五年後に、日本の聖パウロ修道会を訪れるという幸いを得た。それは一九七七年の春であった。この訪問旅行において、彼は管区長館のある東京に数週間滞在し、都心からあまり遠くない東京郊外の八王子の志願院も訪れた。
ロレンツォ神父のもう一つの訪問先、それは当然のことながら福岡であった。彼は福岡の志願院で数日間を過ごした。この福岡志願院はその昔、彼自身が最初に建設計画に着手しながら、完成を見ることのできなかった思い入れのある建物であった。建物を見てロレンツォ神父は、強い感動を覚えて涙を抑えることができなかったが、それと同時に深い満足も覚えていた。ここでは万事が順調に進んでいた。彼は志願院にいる少年たちに、三十年前の歴史を物語って聞かせた。そして日本における聖パウロ修道会の使徒職が、その昔、幾人かの信仰と熱意に燃えた先駆者たちと故パウロ・マルチェリーノ神父が共に構想し、その計画した道に沿って歩み、すばらしい発展を遂げて着実に成果を上げているのを自らの目で確認して、この地を立ち去ったのである。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年