天草にはカトリック教会が三つある。大江教会、﨑津教会、本渡教会。大江教会は小高い丘の上にあって、八角ドームの屋根を持つ白亜の教会。その周辺に住む方々は農業を営む方々が多い。﨑津教会は入り江にある港町の教会で、漁業を営む方々が多い。本渡教会は町の中心街。
三つの教会とも、私にとって神学生時代から馴染み深い。大江教会は竹森勇神父様(福岡教区)の出身教会で、神父様の初ミサの時には神学生全員で押しかけ、お祝いを共にしたのが最初の訪問であった。﨑津教会は下町豊重神父様(福岡教区)の出身教会で、学年は違うが福岡の神学院で一緒に学んだ仲間。「﨑津」と聞くだけで親しみを感じる。本渡教会はかつてエドワード・デイキン神父様(聖コロンバン会)が主任司祭をなさっていて、地域の方々とも交流し、とても評判がよかった。神父様が東京へ異動なさった折には、「本渡」の話をよくなさっていた。
今回の舞台は﨑津集落。ここの表記で「﨑津」か「崎津」か? カトリック教会関連の書類や郵便局の表記を見ると「崎津」となっているが、世界文化遺産や地域の地図での表記は「﨑津」となっている。今回は世界文化遺産の表記に従うことにしよう。
﨑津は中世以来の貿易の拠点で、漁村から成り立っている。山がすぐ近くまで迫っていて、狭い土地をうまく利用しながら家が建てられている。﨑津の中心は何と言っても﨑津教会。この教会について、次のように紹介されている。「丘の上に建つ大江教会と相対して、﨑津教会は入り江にある港町の教会である。一帯は、海のかおりが漂い、教会の鐘の音に癒される風景として『かおり風景百選』に環境省から選定された。建物は、明治四(一八七一)年まで、(禁教期に聖画像を踏ませてキリシタンかどうかを調べる)絵踏みが行われていた庄屋屋敷跡(吉田庄屋役宅跡)を、昭和二(一九二七)年に赴任してきたハルブ神父が買い取り、昭和九(一九三四)年に、鉄川与助の設計によって建てられたゴシック風の木造教会である。」(『長崎遊学 2』参照)
最初の教会は、修道院の跡地に建てられたが、ハルブ神父の強い希望で、絵踏みが行われていた庄屋屋敷跡が選ばれ、しかも絵踏みが行われていた場所に祭壇が置かれている。また教会の中は畳が敷かれていて、日本の生活様式が取り入れられている。
教会を正面から見ると分からないが、横から見ると、建物の造りが微妙に違っている。建築当初、コンクリート造りの計画で建築されたが、資金不足によって途中で木造に切り換えられた。そのために、正面入口部分は灰色のコンクリート造りとなっているが、奥の部分(祭壇辺り)は木造となっていて、特殊な造りとなっている。
﨑津集落を歩いてみると、土地が狭いため、海岸を拡張しながら居住地を拡大していった様子がよく分かる。世界文化遺産になる前は、﨑津教会まで車で行くことができたが、最近では新しくできた「道の駅﨑津」の所に駐車して歩いて行かなければならない。でものんびりと町の風景を見ながら歩いて行くのも楽しいものだ。また対岸へ行って、教会を見るのも魅力的。特に波が静かな時は、教会が逆さに映って、そのコントラストがとても美しい。「日本の渚百選」になっているのも分かるような気がする。
﨑津教会と共に訪れたらよいのは、丘の上に建つロマネスク様式の大江教会。教会への道沿いにはいつも花が植えられていて、白亜の教会とマッチする。大江教会の登り口の所には、天草ロザリオ館があり、潜伏期に用いた信心用具などが展示されている。さらに河内浦へ行くと天草コレジヨ館があり、「天草本」(日本人信者用の平仮名本、または外国人宣教師が日本語を勉強するために、ポルトガル式ローマ字で綴られた本)、グーテンベルグ印刷機、西洋楽器など、南蛮文化にまつわるものが数多く展示されている。また河内浦は、イエズス会の宣教師アルメイダが宣教を開始し、同時に帰天した場所でもある。さらに本渡まで足を運ぶと天草キリシタン館がある。この資料館には、島原・天草一揆(島原の乱)で使用された武器や天草四郎陣中旗などが展示されている。このすぐ近くには、福者アダム荒川の記念碑もある。また富岡へ行くと、富岡城跡がある。島原・天草一揆の際、この城は唐津藩の拠点として一揆勢から攻撃を受けたが、必死の守りで落城を免れた場所でもある。現在、復元作業が行われている。この城跡近くには、アダム荒川殉教公園がある。以前は城跡の入り口にポツンと記念碑が建てられていたが、現在では整備され、説明書きも分かりやすくなっている。
カトリック入門