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これってどんな種?

今を大切にするという種 年間第33主日(ルカ21・5〜19)

 毎朝、髪を解かすときに櫛やブラシに髪の毛が残ったり、洗面台に抜け毛があったりすることがあります。私の場合最近は特に気になり始めました。それを見た時、「あなた方の髪の毛一本も失われることはない」という言葉が頭に浮かんできます。イエス様は、この一本の髪の毛まで気に留め私たちを愛してくださっているのだなぁ、と感じること今日この頃です。小さなことでも日々、イエス様の愛を感じることが出来るといいですね。

 きょうのみことばは、イエス様がエルサレムの神殿が崩壊することを預言される場面です。イエス様は、エルサレムに上られた後、毎日のように神殿に入られ、人々に教えられ、時にはファリサイ派やサドカイ派の人々の意地悪な質問を受けたりしていました。しかし、それだけではなく、やもめが自分の生活費のすべてを献金したことを褒められます。イエス様は、毎日細部にわたって神殿での出来事に気を留めておられたのです。

 きょうのみことばは、イエス様が神殿に来ていた人たちの会話に耳を澄まされ、何でもないような小さな会話に気を留められておられた様子から始まっています。イエス様は、美しい石と奉納物で飾られた神殿について話し合っていた人々に対して「あなた方が目にしているこれらのものが破壊され、積み上げられた石が一つも残らない日が来る」と言われます。
 当時の人たちにとってエルサレムの神殿は、信仰の中心であり、拠り所でありました。今の私たちにとっては、教皇様がおられるヴァチカンと言ってもいいでしょう。人々は、この素晴らしい神殿が崩壊するということはまさにこの世が終わり、いよいよ「メシアが来られる」ということを感じたのでしょう。それで、彼らは「先生、それはいつでしょうか。それが起こるときには、どんな徴があるのでしょうか」と質問します。

 イスラエルの民は、長い間メシアが来られることを待ち望んでいました。マラキの預言では、「見よ、その日が来る、かまどのように燃えながら。すべて高ぶる者、悪を行う者は藁のようになる」(マラキ3・19)とありますように、人々は、メシアが来られる【その日】がなかなか来ないので、主なる神の信仰から離れて行ったのです。マラキは、そんな人々を高ぶる者、悪を行う者と言っています。決して、彼らは私たちが言う、犯罪者ではなく、普通に生活をしている人たちです。さらに、彼らとは対照に「しかし、わたしの名を畏れお前たちには、正義の太陽が輝き、その翼には癒しがある」(マラキ3・20)と伝え、謙遜な気持ちで最後まで、メシアが来られることを信じ、おん父に頼る人たちには、「正義の太陽の輝き」と「翼の癒し」をいただくと言っているのです。

 このように、人々は【メシアが来る日】を待ち望んでいたのです。ですから彼らは、「それはいつでしょうか。……どんな徴があるのでしょう」とイエス様に尋ねたのです。イエス様は、そんな彼らに「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を騙り、『わたしがそれだ』、あるいは『時が近づいた』と言う者が大勢現れる。しかし、ついて行ってはならない」と言われます。かなり前のことですが、「ノストラダムスの大予言」が流行った時がありました。その中には、「1999年7月に『人類が滅亡する』」と書かれていて周りの人たちが、まさに【惑わされた】ようになったのを記憶しています。

 イエス様は、「偽予言者が現れ、戦争や反乱、また、天変地異や飢饉、疫病など、恐ろしい現象が生じ、天には大きな徴が現れる」のようなことを言われます。このようなことを聞いた人々は、さらに恐ろしくなったことでしょう。イエス様は、そんな彼らに「しかし、これらのことに先立って、人々はあなた方に手を下して迫害し、……あなた方にとって証の機会となる。あらかじめ弁明しないよう、心に決めておきなさい。……わたしがあなた方に授けるからである」と言われます。

 私たちの周りでは、さまざまな自然災害に見舞われ、疫病、世界では戦争や内乱などが起こっています。日本でも大きな地震や豪雨などで多くの被害を受けましたし、コロナに罹った方もおられます。私たちの日常生活の中でも、病気や老い、失業や貧困、さまざま家庭内の困難など順風満帆とは言えないかもしれません。イエス様は、「わたしがあなた方に授けるからである」と言われます。イエス様は、私たちが自分でなんとかしなければと思うのではなく、私に信頼しなさい、と言われているのではないでしょうか。

 イエス様は、たとえ神殿が崩壊するような出来事が起きたとしてとも、「私たちの髪の毛一本も失われることはない」と言われ、「耐え忍ぶことによって、自分の命を勝ち取りなさい」と言われます。私たちは、どんな時でも、私たちと共におられるイエス様を信頼し、私一人で頑張るのではなく、三位一体の主と共に耐え忍ぶことで、命を勝ち得ることができるのです。私たちは、先のことを心配するのではなく、今を大切にし、毎日の生活の中でいつも主に信頼して過ごすことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  2. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

  3. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

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