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これってどんな種?

ふさわしく生きるという種

 私たちは、「死んだらどうなるのだろう」と時々考えることがあるのではないでしょうか。信仰を持っている私たちは、復活すると信じていますし、天の国でおん父と一緒に天の食卓に着くと信じています。しかし、具体的にどのようになるのかは、誰も知りません。11月は、「死者の月」ですが、今一度亡くなられた方のことを思い起こすこともいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、復活がないと主張するサドカイ派の人たちがイエス様の所に来て「復活の時」について質問する場面です。みことばの始めには「さて、復活はないと主張するサドカイ派の何人かが近寄ってきて、イエスに尋ねた……」という書き出しになっています。この箇所は、とっても不思議なところで「どうして、復活を信じていないサドカイ派の人たちが【復活】について質問するのだろう」と思いたくなります。もしかしたら、彼らの中にも【復活】を意識している人たちがいたのか、それとも、あえて【復活】の部分をイエス様に質問をして、【復活】がないことを証明しようとしたのでしょうか。

 彼らは、イエス様に「ある人が子をもうけないまま、妻を残して死んだ場合、弟がその女を娶り、兄のために子をもうけなければならない」という、自分たちの家族を残すためにモーセが伝えた「レヴィラート婚」を使って質問します。私たちもそうですが、イスラエルの民も自分たちの【子孫】を残すことを大切にしていたのでしょう。ですから、モーセは、自分たちの家族を増やすことを人々に伝えたのではないでしょうか。

 サドカイ派の人たちは、『モーセ五書』(創世記から申命記)だけを正典として認めていたので、モーセが伝えた「レヴィラート婚」を箇所から質問します。彼らの質問の内容は、「7人兄弟の家に嫁いできた妻が、長男から7番目まで子を残すことができなかった場合、復活後には、誰の妻になるのか」というようなものでした。まさしく、モーセが伝えたことを忠実に果たしていることを主張した質問です。ただ、彼らは、「復活はない」と主張しながら「では、復活の時、この女は、この兄弟のうち、誰の妻になるのでしょうか。7人とも彼女を妻にしたのですが」と彼らも【復活】ということを意識しているのかもしれません。

 この箇所は、自分たちが「復活は無い」と主張しながら「復活の時」のことについてナンセンスでデリカシーさにかける質問をしているように感じますし、同時に、彼らの信仰って何なんだろうとも疑いたくなってしまします。マカバイ記で出てくる7人兄弟の信仰と比べたくなります。彼らは、殉教の間際になっても自分たちの信仰を貫き通しました。その中の一人は「たとえ人の手によって死に渡されても、神によって再び蘇ると希望することこそ望ましい。」(2マカバイ記7・14)と言い残して自分の命を王に差し出します。彼ら兄弟は、【復活】を信じて異国の王が命じた律法で禁じられた豚肉を口にすることを拒否して亡くなったのです。彼らにとってこの世で罪を犯して命を長らえるのではなく、信仰を大切にし、【復活】の後の喜びという希望を常に持っていたのでしょう。

 イエス様は、サドカイ派の人々の質問に対して「この代の人は娶ったり、嫁いだりするが、次の代に入るにふさわしく、また死者の中から復活にあずかるのにふさわしいと認められる人々は、娶ることも、嫁ぐこともない。」と答えられます。イエス様は、復活した人たちは、この代での生活のままではないということを伝えています。それは、すでに永遠の命をいただいているからです。ただ、この箇所でイエス様は、「次の代にあずかるにふさわしい。……復活にあずかるのにふさわしい」と2度も【ふさわしい】という言葉を使われています。では、反対にふさわしくない人もいるということも言えます。この箇所は、私たちの生活を振り返る場面ではないでしょうか。私たちの生活は、「復活にあずかるのにふさわしい」でしょうか。

 イエス様は、「この人たちは、もはや死ぬことはありえない。彼らはみ使いに等しく、復活にあずかる子らとして、神の子だからである」と言われます。私たちは、もうすでに「神の子」となっています。イエス様は、私たち一人ひとりをご自分と同じように【復活】へと導いてくださいます。復活後の私たちは、娶ることも、嫁ぐこともない全く自由でおん父のアガペの愛で満たされると言ってもいいでしょう。イエス様は、サドカイ派の人たちの質問に答えることで私たちに【復活】について教えられているのではないでしょうか。

 さらにイエス様は、モーセが「柴の箇所」で復活について語られていることを伝えてサドカイ派の人々が主張する「復活はない」ということを覆され、指摘されます。イエス様は、どんな人々に対しても【復活】への希望を忘れないようにと示されたのではないでしょうか。

 イエス様は、「すべての人は、神において生きているからである」と言われます。私たちは、この恵みにあずかっているのです。このイエス様の言葉は、何度も繰り返して味合うと私たちに希望と喜びを与えてくださいます。私たちは、「復活にふさわしく」なるように、日々を歩むことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  2. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

  3. 愛なしにはという種 年間第31主日(マルコ12・28b〜34)

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