夫津木勇雄修道士は2021年11月3日に修道誓願70周年を迎えられました。今年で95歳になられます。これを記念して、彼が修道誓願25周年を迎えられた折に執箪した原稿を改めて掲載したいと思います。
皆さんありがとうございます。
私が、今日ここにこうして修道生活をしているのは、多くの人々の祈りと励まし、支えがあったからです。私は、これらを通してくる神の恵みを無駄にしてはならない、と自分に言い聞かせつつ頑張っております。
誓願二十五周年。今になってみますと、あまりにも早く月日が経ってしまったように感じます。過ぎ去った数多くの出来事が夢のようです。
私は修練を終えた後、福岡修道院に移り通算六年間志願者の世話をしました。無学な私がどのように過ごしたか、今思うと恥ずかしい次第です。当時の志願者たちが、今は立派な司祭、修道士になっています。この人たちの模範と行動を見て、私も彼らのような人間になりたいと思っています。
「心と召命はお金ではどうにもならない」。これは、募集に回っている時に耳にした言葉です。
「心」とは、「召命」とは何なのでしょうか。言葉や理屈だけでは、相手の人に納得してもらうことはできません。それには「心」が必要です。「心」は感じさせることができるし、感じるからです。ある人は、表現できない、心の奥底にある何かへのあこがれによって、また、それにひかれて修道生活を始めます。
修道生活は、ヘナヘナした人たち、弱者の生活であるかのように言った人がいます。私はそうは思いません。修道者はある意味において家庭生活をしている人以上に強いのではないでしょうか。日々前進しなければならない修道生活は、一杯、またいっぱいと熱湯をかけられる殉教に似ていると思います。ひと息つくため、あるいは気晴らしのためにと自分を偽ってはならず、神の前に絶えず自分をさらけ出し、神と対面した日々なのです。しかし、私は家庭生活がダメだとか、楽だとは思いません。ラクダに乗っているのではないのですから。どちらも、その人が神から与えられた人生・召命ですから、いずれも導いものだと思います。
第ニバチカン公会議によって修道生活は刷新されましたが、生活している人はどのように制新されたのだろう、と私自身に問うときがあります。修道生活の中で、自由とは何か、刷新とは何か、現代の修道生活とは何か、これらの問いが私の頭に湧きいで、大波のように襲いかかってくることがあります。私は、これらの課題を受けとめ、悟らなければならないと思っています。
去る一月に大きな人事異動がありました。私は十年余り勤めていた中央出版(現サンパウロ)から、循環教育(六か月か一年)のために八王子修学院に移りました。これは日上の暖かい親心と言いますか、兄弟愛の心づくしと感謝しております。循環教育といっても、日本のパウロ会では、私が初めての試みであり、教えてくれる先生は? 私が自分自身に教える教育ですって! どのように刷新された私になるのでしょう。
他人事のような文章になりましたが、何と言おうと、私は私なりの私です。十人十色といいますから、私は自分のペースで歩き続けるでしょう。世の中にはあれこれあるけれど、こだわらず、間をおいて、心をしずめて、すなおにありのままの自分を神の前にさらけ出してながめてみよう。索より、人々の行動の中に習うことが多くあります。
あれこれ気をまわし、こだわっているうちに老いぽれてしまわないよう、「今を大切に」生きよう。