「目を覚ましていなさい」「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(マタイ24章)と今日の箇所に出てきます。待降節の初めにあたり、予期しないことが起こることへの一つの示唆です。
1983年10月28日のこと。神学生だった私は、東京にある聖アントニオ神学院で勉強し、神学科4年生でした。翌年には、終生誓願、助祭叙階、司祭叙階が控えていました。その日、3時限目の授業は掘田雄康神父さんの聖書の授業で、いつものように10時50分に終了。不思議なことに授業が終わったとたん、地震が発生し、みんな驚きました。幸い何の被害もありませんでした。でも何かの虫の知らせ…。それから1時間たち、聖堂で共同の昼の祈りをしていると、電話だということで院長さんに呼び出されました。電話の相手はパウロ会の叔父・山内重夫修道士。「たいへんなことになったぞ。あなたのお父さんが亡くなったと、さっき田舎から電話があったよ」とのこと。電話の内容を聞いたとたん、信じられないような、呆然とするような、そんな気持ちでした。しかも亡くなったのが、午前10時50分で、ちょうど地震が発生した時間。何とも言えない気持ちでした。
もっとも父は喘息を患い、時々ゴホゴホと咳をしていましたが、それでも仕事をよくしていました。亡くなる一週間前には稲刈りや教会の庭の草刈りを手伝ったりもしていて、亡くなる気配は全くありませんでした。ただ亡くなる三日前から少々調子が悪くなり通院。28日の朝8時頃、兄が運転する車で病院に行こうとしましたが、歩けない状態で医師を呼ぶことにしました。やがて先生が往診。しかし、10時50分には息を引き取りました。わずか3時間近くの出来事です。
そんな父の死を思う時、「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」という言葉が身にしみてきます。