五島列島は、福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島が主な五つの島だが、長崎市から行こうとすると、久賀島、奈留島は少々不便かもしれない。若松島も以前は不便であったが、若松島と中通島との間に若松大橋ができたので、今では便利になった。
今回の舞台は久賀島。長崎からこの島へ行くには、いったん福江港へ行き、そこから木口汽船で田ノ浦港(久賀島)へ行くか、福江港から奥浦港(福江島)へ移動し、その港から木口汽船か海上タクシーで田ノ浦港へ行くかである。福江港で乗り換えるのが便利だが、奥浦港から行くと一九〇七年に完成した堂崎天主堂の近くを通って行くので、このコースも魅力的だ。
久賀島の田ノ浦港を目指して行くと、最初に見えてくるのが浜脇教会。最初の教会は一八八一年(大浦天主堂の次に古い教会)に建てられたが、潮風にさらされて激しく傷み、一九三一年に建て替えられた。現在の浜脇教会は白亜の教会で、台風に備えて堅牢に建てられ、五島で最初の鉄筋コンクリート造りとなっている。教会の中は、淡いピンク色に塗られていて、落ち着いた色合いを感じさせる。
久賀島でのキリシタンの歩みは、江戸時代の寛政年間(一七九〇年頃)に始まる。外海から移住した潜伏キリシタンたちが、久賀島の上平(かみのひら)、細石流(ざざれ)、永里(えいり)、幸泊(こうどまり)、外輪(そとわ)、大開(おおびらき)などに集落を形成した。一八六六年ごろ、久賀島の潜伏キリシタンたちに長崎での信徒発見の出来事やプティジャン司教の情報が入ってきた。何代にもわたって待っていた司祭の出現に、危険も顧みず久賀島から密かに長崎に渡り、プティジャン司教の教えを請いに出かける信徒も出てきた。禁教令が続く中、代官所に自らキリシタンであることを公言する信徒が現れ、やがて牢屋の窄殉教事件へと発展していく。(『五島市教会巡りハンドブック』五島市世界遺産登録推進協議会発行参照)
一八六八年、久賀島の大開で信徒たちが捕らえられ、残酷な責め苦を受けた。彼らは寺請制度を拒否し、カトリックの信仰を公に表明して捕らえられた信徒で、十二畳(男女別)の狭い牢に二百名あまりが押し込められた。これは畳一枚あたり十七人という狭さで、横になることもできず、排せつもその場でしなければならないという想像を絶する惨状だった。信徒たちは八か月にわたりこの状況を耐え忍んだが、飢えや病、拷問のために三十九名が死亡し、出牢後の死者三名を加えると四十二名の信徒が命を落とした。牢屋跡には記念碑、その横には記念聖堂が建てられた。聖堂内部の床は絨毯で色分けされ、牢の広さ(六畳)が分かるようになっていて、どんなに狭いかを感じることができる。
二〇一八年七月に世界文化遺産となった旧五輪教会へは、県道一六七号を通っていくことも可能だが、道が狭いので田ノ浦港から船をチャーターして行くのが賢明。この教会については、次のように表示されている。
「旧五輪教会堂は、明治十四年(一八八一年)久賀島浜脇の地に浜脇教会堂として建てられたものであり、昭和六年(一九三一年)に現地に移築された。現存する木造教会堂としては最古の部類に入ると思われる。建物は木造瓦葺平屋建て。窓が教会堂特有のポインテッドアーチ型であるのを除けば、外観はまったくの和風建築の造りである。内部は三廊式の会堂、いわゆるコーモリ天井、ゴシック風の祭壇など定法どおりの教会建築様式に仕上げている。大工棟梁は、久賀田ノ浦の平山亀太郎と伝わる。海辺に建つ木造建築であるため老朽化が激しく、昭和五十九年新しい教会堂建設のため解体の危機にさらされたことがあるが、関係機関の努力で修復・保存されることとなった。」
教会は海辺にあり、波が穏やかな時は、紺碧の水面に教会がきれいに写る。教会近くには坂谷家の方々が住んでいるが、信仰生活と漁業とがうまくマッチしている。
またこの教会から船をチャーターして奈留島の東側を通り、若松島方面へ行くと、断崖絶壁の奥行五十メートルほどのキリシタン湾洞が見えてくる。若松島・里ノ浦のキリシタンたちは、五島崩れが起こった際に迫害を逃れて、船でしか行けないこの断崖の洞窟に隠れた。しかし、沖を通った船に朝食を炊く煙を見つけられ、捕らえられて拷問を受けたと言われる。この洞窟は「キリシタンワンド」と呼ばれ、一九六七年、入口の崖上に三メートルのキリスト像が安置され、土井ノ浦の信徒たちは「死者の日」(十一月二日)のころ、この洞窟でミサをささげ、炊事をして、先祖の遺徳を偲んでいる。
カトリック入門