長崎県の北部地域に住む方々にとって「大野」と聞くと、最初にイメージするのは佐世保市内にある「大野」ではないだろうか。西肥(さいひ)バスの拠点(バスターミナル)、大野営業所があるし、カトリック大野教会もある。さらに私の叔父が長年、西肥バスの大野営業所に勤めていたこともあり、佐世保の大野を思い出してしまう。
今回、さるいて(めぐって)みる所は、外海の北側にある「大野集落」。この集落は二〇一八年七月、世界文化遺産として登録されたが、その紹介記事の中で「神社にひそかに祀った自らの信仰対象を拝むことによって信仰を実践した集落」と記され、キリシタンを信仰対象として祀る「門神社」に目がいきそうだが、信仰の視点で考えるならば外海の大野教会と言えよう。
大野教会(国指定重要文化財)は神浦(こうのうら)と大野地区の高齢の信者のため、一八九三年、ド・ロ神父(パリ外国宣教会)が自費を投じて建て、信者たちも奉仕して完成している。最初は教会だけであったが、一九二六年、呼子の沖合にある馬渡島(まだらしま)から赴任してきたブルトン神父(パリ外国宣教会)が、祭壇部分の先の所に司祭館を増築し、現在の形となっている。この教会の特徴は、「ド・ロ壁」が施されていること。この地方では温石(おんじゃく)と呼ばれる水平に割れやすい石を、砂・石灰・ノリ・スサ(ワラなど)を混ぜたアマカワで積み上げていく工法で、昔から石段や塀、かまどなどに用いられてきた。ド・ロ神父はこの工法にヒントを得て、玄武岩を用いて、赤土を水に溶かして濁液で石灰と砂をこね合わせ、固めて壁を作ることを考案して、四十~五十センチの厚い壁を作った。耐久性に富むこの壁を、考案者の名にちなんで「ド・ロ壁」と呼ぶようになった。聖堂の正面には目隠しのようにド・ロ壁があり、外海の強い風に対応できる工夫がなされている。(『長崎遊学2』長崎文献社参照)
駐車場から大野教会まで、けっこうな距離を歩くので、少々息切れしそうにもなる。大野教会は「ロザリオの聖母」に献げられ、聖母像が優しく迎えてくれる。この像のもとにはいつも季節の花が添えられていて、地元の方々のぬくもりを感じる。教会の「ド・ロ壁」に目をやると、一つひとつ形の違う石を根気強く積み重ねているのがよく分かる。窓の部分にはレンガが施され、それもまた味わい深い。教会の中はこじんまりとしていて、素朴な趣がある。
大野教会から車で五分くらいの所に「ド・ロ神父大平作業所跡」(市指定史跡)がある。ここは、ド・ロ神父が一八八四年から原野を開墾して、農園を切り開いた時の作業所跡があり、現在でもレンガの一部が残っている。自然石を使った建物の壁などを見ると、出津教会や出津集落の民家の壁の作り方とよく似ているので、ド・ロ神父の働きがこうした壁からも想像できる。またこの周辺の開墾地は、「ド・ロさまの畑」とも呼ばれている。この地を訪れると、ド・ロ神父が信者たちの生活支援のために、種々の工夫をしたことが偲ばれる。
世界文化遺産ではないが、大野集落から北へ行くと「ジュリアン中浦」の里がある。福者ジュリアン中浦は一五六七年頃、この中浦の地で生まれた。十二歳で有馬のセミナリオに第一期生として入り、遣欧使節の一人に選ばれ、ローマに派遣された。教皇にも謁見し、各地で歓迎を受け、帰国した。その後、苦労して司祭となり、天草、八代、小倉などで宣教に従事している。彼は小倉で捕らえられ、一六三三年十月二十一日、長崎の西坂で穴吊りの刑で殉教した。殉教に際し、「私はローマへ行った中浦神父です」と語ったことを思い起こすかのように、中浦ジュリアン記念公園の銅像は、ローマの方向を指している。資料展示室には、本田利光氏によるモルタルレリーフ彩色壁画でジュリアン中浦の生い立ちから殉教までの生涯が描かれ、ジュリアン中浦の波乱に満ちた歩みがよみがえってくる。
中浦からさらに北へ行くと、横瀬浦がある。一五六二年、大村純忠(すみただ)によって開港された南蛮貿易の拠点で、港は「御助けの聖母の港」とも呼ばれた。一年後の後藤貴明の乱(一五六三年)によって教会などは焼滅するが、全国から集まった貿易商人やキリスト信者、ポルトガル人などで賑わったことがイエズス会宣教師たちの書簡などで知ることができる。また日本で最初のキリシタン大名となった大村純忠が洗礼を受けた地であり、『日本史』の著者でも名高いイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが日本で最初に足跡を遺した所でもある。横瀬浦には、美しい十字架がそびえる八ノ子島(はちのこじま)、大村純忠の邸宅近くに建てられた横瀬浦教会跡などがある。
横瀬浦からは長崎方面へ戻っていくのもよいが、せっかくなので、西海橋の渦潮を満喫するのもよいだろう。鳴門(なると)の渦潮ほど大きくはないが、渦潮、潮流とも迫力がある。
カトリック入門