戦後、ボアノ神父に委ねられた映画の使徒職について語らずに済ますことはできない。あの当時から日本は、映画の世界において前衛的な地位を占めてはいたが、その優位性は時の経過とともに多くの人々から追認され、確固としたものとなった。そしてこの仕事(映画)は、私たちの立場を改めて自覚させる困難なものでもあった。なぜなら競争相手は、映像の世界における百戦錬磨のプロフェッショナルたちだったからである。しかし熱意と不断の努力によって、私たちはこの困難な部門においても道を切り拓くことができた。
一九四八年、四谷の修道院は、種々の業務が増大してきたため、明らかに手狭となってきた。新しいラジオ局の建設のため大量の資材が、空いている敷地の大部分を占領していた。セメント、砂、石灰、鉄骨などに囲まれて、私たちは窮屈な思いをしていた。
そこでパウロ神父は、四谷の修道院から二キロほど離れた赤坂に売りに出されていた広い土地を見つけた。それは戦時中、アメリカ軍の空襲によって破壊された旧日本陸軍の兵舎の跡地であった。短期間のうちにパウロ神父は購入の契約を結び、キエザ神父を新しい修道院の院長に任命した。
焼け残ったセメントの壁を利用して、若い志願者たちのために、小聖堂のある最初のささやかな志願院がこうして始まった。初期の志願者たちは四谷から赤坂の新しい住居に移り、自由に動き回れる広い場所でいっそう若さを発揮できるようになった。これが日本における聖パウロ修道会の正真正銘、最初の志願院であった。
ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年