私の郷里(松浦市み御くりや厨町)から生月島のたち舘うら浦港まで約二十五kmの距離で、車で行けば約四十分。五十年ほど前になるが、郷里から生月島まではずいぶん時間がかかったものだ。まずバスで平戸口へ行き、そこから船に乗って平戸島に渡り、さらにバスに乗ってうす薄か香港へ行き、船に乗って生月島のいち壱ぶ部港に立ち寄って舘浦港に到着した。半日がかりの旅程で、生月島は遠いなあと感じていた。今は平戸大橋(一九七七年)、生月大橋(一九九一年)が完成して、とても便利になった。
かれこれ三十年前の話だが、毎年、聖母被昇天の祭日(八月十五日)のミサが夕方、平戸市街の郊外にある川内峠でささげられた。平戸・松浦周辺から信徒が集まり、ミサの最後には、平戸市長さんの挨拶もあった。ミサが終わる頃には、辺りは真っ暗となるが、中江之島の手前辺りに船のいさりび漁火で十字架の形が作られていた。ミサもすばらしかったが、船団による漁火にうっとりしたものだ。
生月大橋が完成してからは毎年のように島を訪れ、その度に「中江之島」の歴史を深く知るようになった。一番意識するようになったのは、「黒瀬の辻殉教碑」(一九九一年に完成)が建てられた時からかもしれない。
生月島の信仰や殉教は、聖フランシスコ・ザビエルと深いつながりがある。ザビエルが一五五〇年、平戸で宣教活動を始め、やがて教会も建てられた。平戸を支配していた松浦氏は、交易にもキリスト教が役立つと考え、家臣のこ籠て手だ田氏といち一ぶ部氏がキリスト教になることを許していく。こうして彼らの領地であった生月島や平戸島の西海岸地域で信者が増えていくが、一五九九年、それまでキリスト教に寛容であった松浦たか隆のぶ信が亡くなり、キリスト教に対する迫害が始まる。籠手田氏と一部氏は信仰を守るため、家臣六百名とともに領地を捨て、長崎へ行く。しかし、籠手田氏の家臣で、生月島の総奉行を務めていたガスパル西は、妻のウルスラ・トイ、自分の子どもたちと島に留まることを選ぶ。領主松浦しげ鎮のぶ信はキリシタンに対する弾圧を強め、ガスパル西に死刑の宣告をする。ガスパル西は、一五六三年にコスメ・デ・トーレス神父によって十字架が建てられたという黒瀬の辻で処刑されることを望み、一六〇九年十一月十四日、その地で処刑されていく。同じ頃、少し離れた所で妻のウルスラ、長男のヨハネも斬首された。(一六三四年、次男の聖トマス西神父は長崎で殉教し、広島にいた三男ミカエルも、兄トマス神父をかくまった罪で、同年、妻、幼児と共に広島で殉教している。)黒瀬の辻の裏手にガスパル西の墓があり、かつて墓には松の木が植えられていた。しかし、数十年前に枯れてしまい、聖トマス西が列聖された際、この木で作られた十字架が教皇ヨハネ・パウロ二世に献上された。そのコピーが、黒瀬の辻の祭壇下に保管されている。この黒瀬の辻から中江ノ島を眺めることができる。
中江ノ島は長さ四百m、幅五十mの無人島で、禁教時代にキリシタンたちが処刑されたと言われている。平戸の信者にとって、岩からしみ出す水を採取し、聖水とする「お水取り」を行う大切な場所。私はこの島に一度も上陸したことがないが、生月島の山田教会の主任司祭から、この島で採取した水を洗礼式のために使っていることを聞いたことがある。
さて生月島に入って最初に立ち寄ったらよいのが「平戸市生月町博物館 島の館」。この博物館には、江戸時代に日本最大規模を誇った捕鯨の歴史と文化が分かりやすく紹介され、二階には「かくれキリシタン」の資料が展示されている。特にユニークなのは、かくれキリシタンの住居が復元され、館内には「オラショ」を唱えている信徒たちの声が流されている。
その後、立ち寄ったらよいのが鉄川与助の設計・施工により一九一二年に完成した山田教会。当初、しっ漆くい喰で覆われたレンガ造りの教会であったが、一九七〇年、鉄筋コンクリートで塔が増築され、現在の形になっている。教会の中に入ると、ガスパル西の殉教場面などがレリーフで描かれ、側面には蝶の羽を使ったモザイクのような絵が展示され、七つの秘跡などがシンボリックに描かれている。
その後、壱部教会、しお塩だわら俵断崖も興味深い。柱状節理と言われる奇岩群が約一kmにわたって続き、北アイルランドのジャイアンツコーズウェイを思い起こさせる。さらに「おお大バエ灯台」まで行くと、灯台からは十六世紀に教会が建てられたたく度島、壱岐、う宇く久島がよく見える。
帰り道は島の西側にある「サンセットウェイ」を通るのがお勧め。夕方の日没はまさに圧巻。また舘浦に着く前に「だんじく様」と呼ばれる場所がある。一六四五年頃、弥市兵衛と妻マリア、その子ジュアンが海岸のだんじく(竹の一種)の茂みに隠れていたところ、子どもが見つかり、一家全員処刑された場所と言われている。
カトリック入門