聖ヒエロニモの記念日は9月30日です。ヒエロニモは、4世紀半ば(おそらく347年ごろ)、ダルマチアのストリドンという町で生まれました。その後、360年に勉学のためローマに行き、そこで洗礼を受けました(366年)。
ヒエロニモは、トリアーやアクイレイアに滞在した後、372年ごろに東方へ向かい、まず数年間シリアのアンティオキアで生活しました。そのうち2年間は砂漠で過ごしました。ヒエロニモが司祭に叙階されたのもこのころです。さらに、ヒエロニモは379~381年にコンスタンティノープルに移り、ナジアンズのグレゴリオの導きのもと、オリゲネスの著作を学びます。そして、ラテン語圏の教会のために、これをギリシア語原典からラテン語に翻訳するようになりました。
382年、ヒエロニモは、アンティオキアの司教とともにローマに赴き、385年までそこにとどまります。ローマでは、教皇ダマソの勧めにより、聖書の翻訳および注解書の執筆に尽力します。実際に、384年にはそれまでのラテン語訳を見直し、福音書と詩編を訳します。これ以後、聖書への情熱は、ヒエロニモが亡くなるまで続くことになります。ローマではまた、身分の高い女性たちを聖書の勉強や貞潔の生活へと熱心に導きました。
しかし、384年末に教皇ダマソが亡くなると、ローマではヒエロニモに対立する勢力が増大し、ついに385年8月、ヒエロニモはローマを離れました。彼は、ベツレヘムに行き、そこに男子と女子、それぞれの修道院を建てます。ヒエロニモにとって、修道生活とは、第一に聖書をとおしてなされる神との対話を意味していました。このため、ヒエロニモは聖書の翻訳と解釈、またギリシア語文献の翻訳に取り組みました(391年には、ヘブライ語からラテン語への旧約聖書の翻訳を始めます)。ヒエロニモにとって、聖書の翻訳や注解書の執筆は、知的欲求を満たすためのものではなく、多くの人が神の言葉を生きるためになされたものでした。実際、ヒエロニモの翻訳は、単語の忠実な訳ではなく、意味を重視した訳でした。また、ヒエロニモは、聖書の中には記されていない教会の聖伝も大切にしていました(たとえば、マリアが終生処女であったことなど)。
393年以降、ヒエロニモは、オリゲネスの思想を危険視し始め、これに反対の立場をとるようになります。ヒエロニモとヒッポの司教アウグスチヌスの交流が始まるのもこの時期です。二人の間には何度も手紙のやりとりがなされ、神学的議論が交わされるにとどまらず、深い友情のきずながはぐくまれていきました。
ヒエロニモは、ローマからアフリカを経てベツレヘムに逃れてきたペラギウスとその追随者たちにもオリゲネスと同じ異端の危険を見抜き、414年、彼らに反対の立場を表明します。これに激しく反発したペラギウス派の人々は、ヒエロニモの修道院に火を付けました。その後、修道院は、移動してきたゲルマン民族の攻撃により、416年に破壊されました。ヒエロニモは、最後まで聖書の翻訳と解釈を続け、エレミヤ書の注解を執筆している最中の420年(あるいは419年)9月30日に亡くなりました。
聖ヒエロニモ司祭教会博士を祝うミサでは、マタイ福音書13・47-52が朗読されます。この個所は、13・1から始まる一連のたとえの最後にあたるたとえ(13・47-50)と13章全体の結びにあたるイエスと弟子たちのやりとり(13・51-52)からなっています。
47-50節のたとえは、網でとった魚のうち、良い魚は器に入れられ、悪い魚は投げ捨てられるというもので、49-50節に記されている説明から終末的意味を持っていることが分かります。世の終わりには、悪い人々が正しい人々の中に混じっていても、天使たちがより分けて、悪い人々を「燃え盛る炉の中に投げ込む」(50節)というのです。最後の言葉、「悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(同)にも示唆されているように、悪い人々が必ず罰せられることを示し、しかもその罰の厳しさを強調することにより、このたとえは人々を回心へと招いているようです。
今回は、特に、51-52節のイエスと弟子たちのやりとりに目を向けましょう。イエスが、「これらのことがみな分かったか」とお尋ねになると、弟子たちは、「分かりました」と答えます。すると、イエスは「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものとを取り出す一家の主人に似ている」と言われます。
「新しいものと古いもの」という対比は、イエスの到来による新しい時代とそれ以前の時代を表す場合もありますが、ここでは「すべてのもの」を意味していると言えるでしょう。ヘブライ語的表現として、両極のものを並置することにより、その間にあるすべてを意味する用法があるので、ここでも「新しいものから古いものに至るまでのすべて」という意味なのでしょう。
倉の中にはさまざまなものをしまっておきます。古いものから新しいものまでが混ざり合っています。しかし、ここで登場する「一家の主人」は、新しいものであろうと古いものであろうと、自由自在に取り出すことができるのです。どこに何があるかをしっかり把握しているからです。雑然としていては、奥のほうのものを取り出すことができませんから、いつも倉は整理されているのでしょう。この主人に、「天の国のことを学んだ学者」がたとえられています。
「天の国のことを学んだ人」は、まるで自分が知り尽くしている倉から出すように、すべてのものを自由自在に取り出します。どんな状況にあっても、適切な道を選び取り、ふさわしい生き方ができるのです。
聖ヒエロニモが、あれだけ忍耐強く聖書の翻訳と注解書の執筆に尽力したのは、一人でも多くの人が神の言葉をふさわしく学び、それを生きるためでした。わたしたちは、今、日本語で聖書を読むことができます。いくつかの優れた注解書も出版されています。わたしたちは、神の言葉である聖書から天の国のことを学ぶことができるのです。聖ヒエロニモの取り次ぎによって、わたしたちも忍耐強く天の国のことを学び、これにふさわしい歩みをできるよう願いたいと思います。