奈留島を初めて訪れたのは、私が司祭に叙階された翌年の一九八五年の春だった。その当時、福岡修道院で生活していたが、友人が奈留教会の主任司祭で、休み中にはよく誘われ、その教会にはしばしばお世話になった。奈留島のその時の印象は、少々不届きかもしれないが、江上天主堂よりもリフレッシュや漁釣りのイメージが強かった。永山さんという一人の信者さんに、機会あるごとに船で釣りに連れていってもらった。特に奈留島の鈴ノ浦と久賀島の五輪教会の間にある奈留瀬戸は、チヌや鯛などがよく釣れ、その魚をシスターに夕食のさしみや吸い物にしてもらい、とてもおいしくいただいたのを覚えている。一度は、釣りに没頭しているうちに雷雨となり、船の近くに落雷して怖い思いをしたこともある。
奈留島へのアクセスは、長崎港から福江島に渡り、そこから奈留島行きの船に乗るケースが多いが、フェリーたい太こ古に乗って博多港から奈留島へ行く方法もある。今回、奈留島の取材は三月五日(火)に行ったが、フェリー太古のルートを選んだ。十五年前くらいの三月、上五島の教会の黙想指導を手伝ったことがあるが、春の嵐で上五島から長崎、佐世保への船はすべて欠航し、一日足止めをくらったことがある。ところが、そんな嵐でも動いていたのが、フェリー太古だった。そんな体験から、今回はフェリー太古のルートにした。真夜中に博多港から出港し、途中、いき生つき月あたりで揺れたが、朝の7時半ごろ、奈留港に到着。さっそくレンタカーを借りて、奈留高校の敷地内にある「ユーミンの歌碑」を訪れた。ユーミンの名曲「瞳を閉じて」は奈留高校に贈られた歌で、本人直筆の歌詞が石碑に刻まれている。
その後、奈留島全体を見たいと思ったので、城岳展望台へ行ってみた。そこからは奈留島の入り江がよく見え、さらには久賀島のご五りん輪教会も見ることができる。江上天主堂の取材は午前九時だったので、少し時間があり、しわ皺ノ浦のビーチロックまで行ってみた。ここは玉砂利のビーチで、どの石を見ても、何だか宝石に感じるような不思議な世界だった。やがて時間も近づき、江上天主堂を訪問することにした。この教会の説明文には次のように記されている。
「江上地区には、一八八一年に外海(現長崎市)から四家族が移住し、洗礼を受けたといわれている。明治三十九年に現在地に教会を建設していたが、大正六年三月再建に着手し、翌七年の三月、五十坪の教会が完成した。この江上天主堂は、教会建築の父・鉄川与助が手掛けたもので、木造対称のシンプルな外観と純白に彩られた板張りの外壁がこの教会の特長である。また、内部はアーチ形の美しい天井、木目塗りの珍しい装飾が美しく、価値の高い建築様式であり、平成十四年に県の文化財に指定され、平成二十年には国の重要文化財に指定されている。」
教会の正面から見ると左右対称で、クリーム色の板張り壁と水色の窓枠の色合いが優しく感じられる。(教会内は撮影禁止なので、写真は掲載していないが)窓ガラスには手描きの花の絵が白と黄色で彩られ、少々は剥げかかっているのが時代を感じさせる。壁には落書きもみられるが、「古文書の如き落書き 島の春」(がく岳せき石)という川添猛神父の俳句が掲示され、一つのユーモアを添えてくれる。また水色の窓枠と共に天井の部分が十字に切り取られ、「十字架」、五島特産の「椿」を感じさせる。
江上教会も過疎化が進み、一時期、巡回教会だったなん南ごし越教会と江上教会のどちらを廃止するか議論があった。信者数としては、南越教会が多かったが、歴史的遺産としての価値などで、江上天主堂が残ることになった。そういう歴史を振り返りながら天主堂を見てみると、建物としての価値や重みを感じる。
天主堂を見学し、遠命寺トンネルを過ぎてしばらくすると、「江上天主堂2.0km」という案内が出てくる。九州自然歩道の一部ではあるが、昔は小学校への通学路でもあった。急ぐ旅でなければ、のんびりと散策しながら江上天主堂へ歩いて行くのもよいかもしれない。
奈留島には、すでに廃墟となっている南越教会、奈留ターミナルに近い奈留教会がある。奈留教会は島の中央にあり、一九二六年ごろ、地元の信徒の要望により、高台に建てられたが、木造だった旧教会は幾度となく台風の被害にあい、一九六一年、現在のコンクリート造りの教会が建てられた。中心街にもあるので、よく目立つ。
また島にはたくさんの海水浴場があり、有名なものとしては、宮の浜海水浴場、しゅうと舅ケ島海水浴場がある。砂浜とは違って玉砂利で、足も汚れにくく、どこまでも澄み渡り、海水浴には最適と言える。特に舅ケ島海水浴場の所には景勝地の「千畳敷」がある。
カトリック入門