9月14日は十字架称賛の祝日です。私たちはいつも教会の中で十字架を目にしていますし、祈りの中で何度となく十字架のしるしをします。私たちにとってごく身近なものとなっている十字架ですが、きょうはこの十字架の意味、そして十字架を称賛するという意味について考えてみたいと思います。
さて、十字架称賛の祝日のミサの福音では、ヨハネ3章13〜17節が読まれます。その中で、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」という表現が出てきます。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」とは、民数記21章4〜9節に述べられていることです。イスラエルの民はエジプトから解放された後、荒れ野をさまよっていましたが、神に不平を言って逆らいました。そこで神は、炎の蛇を送りました。イスラエルの民の中には、蛇にかまれて、多くの死者が出ました。しかし、モーセが神の言葉に従って青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げると、それを見た人は蛇にかまれても命を得ました。
ヨハネによる福音書では、「人の子が上げられる」こと、つまりイエスが十字架にかけられることが、この出来事に対比されています。イスラエルの民が荒れ野で死にさらされていたように、私たちも罪の中で死に定められていました。しかし、このような私たちのために、父である神は独り子イエス・キリストを送り、イエスは御父の言葉に従って十字架に上げられました。こうして、十字架上のイエスを仰ぎ見る人は永遠の命を得るようになったのです。
しかし、永遠の命を得るために私たちが仰ぎ見るイエスはというと、すべてをはぎ取られ、十字架上で血を流しながら、死の苦しみにもだえています。そこに見えるのは、当時最も酷く非人間的であると考えられていた十字架刑によって、社会から排斥された人の姿です。常識的に見れば、忌み嫌うべきものでこそあれ、称賛できるようなものではありません。しかし、「信じる者」(今回取り上げた福音には、二度、この言葉が出てきています)は、この卑しい十字架のイエスにこそ救いがあることを見て取り、それを仰ぎ見て永遠の命を得る、と言うのです。十字架が卑しいものと考えられていた時代ですから、当然、これを仰ぎ見て礼拝する弟子たちも社会から卑しい者と考えられていたことでしょう。しかし、弟子たちは、イエスの十字架に直面することによって、救いとは常識的にすばらしいと考えられていることから生まれるのではなく、たとえ卑しく見えるものであっても、神のなさる業を受け入れることによって得られるのである、ということを理解しました。社会が卑しいと考えることをこそ、神が救いの道具とされたことを理解しました。こうして、弟子たちは、イエスの十字架こそが神の業であり、救いであることを力強く宣べ伝えていったのです。
今日の社会では、目に見える形でキリスト者が迫害されることはほとんどありません。十字架も卑しいものとは考えられていないようです。十字架を見て、顔をしかめたり、さげすみの目をしたりする人などおそらくいないでしょう。社会の常識を打ち砕くはずの十字架は、いつの間にか常識的なものになってしまいました。その分、十字架の持つ衝撃的な力も薄らいでしまったようです。人間的には最も卑しい十字架を通して最もすばらしい救いが実現されたという神秘、このことの深い意味を現代に生きる私たちが実感するのは難しいことなのかもしれません。
しかし、神がイエスの十字架を通して人びとを救ったということは、今も神は、常識的に愚かだと思えることや卑しいと思えることを通して、救いの業を実現しておられる、ということを意味しています。自分の周りを見回してみてください。それほど意識することもなく、いつの間にか卑しいとか、ばかげているとか思っていること(人)があるでしょう。そうしたこと(人)を社会通念に基づいて排除するか、それとも十字架の論理で受け入れるか、……福音書の語る「永遠の命」を得ることができるかどうかも、そこにかかっていると言えるのではないでしょうか。私たちが、イエスの十字架の中に真の救いを見いだし、これを称賛するなら、「常識」という名の価値観に惑わされることなく、どんなことの中にも神の救いの業を見て、それゆえに神を賛美することができるようになるでしょう。