私が野崎島を初めて訪れたのは、二〇一二年九月のことだった。中(なか)通(どおり)島(じま)の北部にある仲(ちゅう)知(ち)教会には何度となく行ったことがあるが、野崎島へはなかなか行く機会がなかった。この島は無人島で、中通島から船の便がなく、行くとしたら海上タクシーをチャーターしなければならない。チャーター代がけっこう高いこと、島に入るためには一人千円払わなければならないこともあり、実現しなかった。ある時、仲知教会の主任司祭に「神父さん、野崎島の旧野首教会は神父さんの小教区から一番近いけれど、行ったことがあるや?」と尋ねたら、「野崎島に入るのに千円かかるし、しかも船をチャーターしなければならんので、金がかかるとよ。ご聖体も安置されとらんけん、一回も行っとらん」と、予想外の答えが返ってきた。確かに、お金をかけてまで……というのが、正直な気持ちかもしれない。
さて野崎島へは、津和崎港から船をチャーターして、約20分で到着する。船を降りて坂道を登っていくと野崎ダムがある。このダムの水は、地下のパイプラインを通して、小(お)値(じ)賀(か)島へ送っているようだ。小値賀島はフラットな地形のため水が少なく、野崎島から水の援助を受けている。このダムの横を通り、旧野首教会に到着する。初めてこの教会周辺を目にした時、緑が一面に広がるアイルランドの風景を思い出した。アイルランドの首都ダブリンから西のゴールウェイへ向かって車で走っていくと、緑色の原野に石垣の囲いをして、羊を飼っている光景を目にする。野崎島には野生化したシカはいても羊はいないが、石垣の囲いがアイルランドの風景とよく似ている。その景色を見るだけでも癒やされた気持ちになる。
この野崎島は五島列島の北に位置しているが、小値賀島、宇(う)久(く)島と同様に平戸藩の管轄だった。この島の北側に王(オ)位(エ)石(いし)と呼ばれる巨大な石があり、この石の上に神(こう)嶋(じま)明(みょう)神(じん)が現れたという伝説がある。ここに五島で最古、八世紀に創建された沖ノ神嶋神社がある。港からこの神社まで、往復だと半日がかりになるので、行く機会がない。一方、中部の野首地区と南部の船森地区がキリシタンの集落だった。「野首は、寛政年間の大村からの五島移住で、野崎島に定住した二家族に始まり、瀬戸脇(船森)は、大村の海岸で明日処刑されるという三人を小値賀の船問屋が連れ帰り、移住させたのが始まりという。禁教令廃止後も、貧困の連続だったが、それぞれに木造の教会をつくり、その後、野首では一九〇七年、十八戸の信徒が結束して、本格的教会建設が始まる。信者たちは寝食削って資金を作り、一九〇八年、教会は完成した。」(『長崎遊学』2参照)
野首教会は鉄川与助の設計・施工によるもので、煉瓦造平屋となっている。煉瓦をよく見ると、手作業の味わいが感じられ、温かい教会の雰囲気を感じる。教会の中に入ると、木の柱と飾りがギリシアの神殿を思わせる。また祭壇と信徒席との間には、かつて聖体拝領の際に使った木の柵があり、とても懐かしく感じる。また両脇のステンドグラス、後陣のステンドグラスには光が優しく射し、百年経過したと思えないほどの色合い。外には寄せ鐘も置かれ、かつては鐘の音を合図に信者が集まり、一緒に祈ったのだろう。
瀬戸脇は一九六六年に、野首は一九七一年には全員移住し、野崎島は無人島となった。現在、小値賀町が廃校を使用して研修施設を作り、教会も整備された。
旧野首教会へ行ったついでに、白浜満司教(広島教区)出身の米(こめ)山(やま)教会、前田万葉枢機卿(大阪教区)や故・島本要(かなめ)大司教(長崎教区出身)の仲知教会、五島出身の最初の司祭となる島田喜(き)蔵(ぞう)神父の初ミサのために建てられた江袋教会(一八八二年竣工)に立ち寄るのもよいだろう。江袋教会は無名の大工によって建てられたもので、最大限の技術を使った洋風建築となっている。二〇〇七年、漏電が原因で焼失。その現場を見たことがあるが、堂内は真っ黒に焼けていた。しかし、柱がしっかりしていたこともあり、その柱を再利用して二〇一〇年、修復が完了した。
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