今回は、8月24日に祝われる聖バルトロマイ使徒を取り上げたいと思います。聖バルトロマイは、「十二人」と呼ばれる使徒たちの一人です。とはいえ、聖書の中でバルトロマイが登場するのは、イエスが「十二人」を選んだときに、「十二人」全員の名前が挙げられている箇所だけです(マタイ10・1〜4、マルコ3・13〜19、ルカ6・12〜16)。バルトロマイは、この「十二人」のリストの中で、ペトロとアンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟といった別格とも言える4人を除けば、フィリポの次に名前を記されているので、使徒たちの中でも比較的重んじられていた人物なのかもしれません。
ヨハネによる福音書には「バルトロマイ」は一度も出てきません。しかし、「ナタナエル」なる人物が、最初にイエスに従った弟子たちの一人として(ヨハネ1・45〜51)、またガリラヤで復活のイエスに出会った7人の弟子たちの一人として(21・1〜14)記されています。教会は、伝統的にこのナタナエルが使徒バルトロマイと同一人物であるとする伝承を受け入れてきました。当日の典礼で朗読される福音も、ナタナエルの召命を描いた箇所がとられています。
ヨハネ福音書が描く弟子たちの召命物語は、マタイ、マルコ、ルカ福音書の物語とは異なる視点で描かれています。福音書は、必ずしも実際にあった出来事を克明に描写することを意図しているわけではないので、どちらが事実を伝えているかを議論するのは、あまり意味がありません。むしろ、この描写を通して福音書が伝えようとしているメッセージを読み取っていくことが大切です。
ナタナエルは、直接、イエスから招かれたわけではなく、フィリポに誘われて、イエスのもとに向かいました。これは、ナタナエルだけではなく、あのペトロも兄弟アンデレによってイエスのもとに連れて行かれました(1・42)。アンデレも、フィリポも、イエスに出会ったことによって、今度は他の人にイエスを伝え、彼らをイエスのもとに連れてきます。イエスから命じられたわけではありませんが、当たり前のようにそうしています。ここには、イエスの招き、召命がもたらす力強い連鎖がよく表れているように思います。
さて、ナタナエルは、イエスのことを証しするフィリポに対して、「ナザレからよいものが出るはずはない」と反論します。イエスのことを知らないナタナエルは、まず自分が持っている知識に照らして、イエスについての判断を下そうとしたのです。これに対し、フィリポは「来て、見なさい」と言います。この言葉は、イエス自身が最初の二人の弟子たちにかけた言葉「来なさい。そうすれば分かる」(1・39)に通じるものがあります。イエスを理解するには、実際にイエスのもとに行き、ともに歩みながら、体験をしなければならないのです。イエスの弟子になるということは、知識や教えの習熟によって実現するものではなく、イエスとの出会い、関わりを通して実現するものなのです。
フィリポによって連れてこられたナタナエルは、しかし、イエスと直接に出会い、語り合うことを通して、変えられていきます。「ナザレからよいものが出るはずはない」と言い張っていた人が、実際にイエスに触れることによって、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」とまで宣言するのです。
しかし、それで終わりではありません。イエスは、ナタナエルに「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と約束されるのです。イエスに出会い、イエスに触れることによって、イエスの弟子となったナタナエルは、これからイエスとともに歩み、体験を深めることを通して、さらにすばらしい神秘に分け入ることになるのです。
イエスに出会った(出会わせていただいた)人が、今度は人々をイエスのもとに連れていく者となっていく。こうして、イエスに出会った人たちが、さらに人々をイエスのもとに連れていく。そして、イエスとともに歩むことによって、さらにすばらしい体験を重ねていく。こうした連鎖の中で、私たちもイエスに出会わせていただき、歩みを続けています。ナタナエル/バルトロマイの召命物語を読み深めながら、このことに深く感謝をすると同時に、私たちがどれだけイエスのもとに行こうとしているか、イエスに何を見ているかも反省したいと思います。