きょうの『集会祈願』に「ここに集うわたしたちを聖霊によって清めてください。キリストに従って生きる喜びが、一人ひとりのうちに満ちあふれますように」とあります。聖霊は、私たちに「力」をくださるだけではなく【清めて】くださるお方なのです。まず、聖霊の恵みをいただきながら私たちの罪を清めてくださるようにお祈りしたいですね。
きょうのみことばは、イエス様が人々が回心しないことに嘆く場面です。イエス様は、エルサレムへと向かう途中に弟子たちに「天に宝を積む」こと「忠実な僕として主人の帰りを待つ」ことなどを話されました。きょうのみことばの少し後に「どうして、今の時代を見分けることを知らないのか」(ルカ12・56)と言われます。当時の社会も今と同じように貧富の差が大きかったのでしょう。そのため、おん父に向かう心はかなり荒んだものとなっているようです。そんな人々の心に対して、イエス様は「わたしは地上に火を投じるために来た。火がすでに燃えていたらと、どれほど思っていることか」と言われます。
私たちは、このイエス様の言葉を聞くとき、「イエス様は何を言われているのだろう」と不思議な気持ちになるのではないでしょうか。イエス様が言われる【火】とはどういうことでしょう。洗礼者ヨハネは、「その方は聖霊と火で、あなた方に洗礼をお授けになる。……籾殻を消えることのない火で焼き尽くされる」(ルカ3・16〜17)とイエス様のことを言っています。また、使徒言行録には、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上に留まった。すると、みなは聖霊に満たされ……」(使徒言行録2・3〜4)とあります。
イエス様が言われている【火】というのは、聖霊のことのようです。イエス様は、私たちがこの聖霊の【火】によって罪を清めていただくようにと言われているのではないでしょうか。イエス様は、おん父からこの聖霊の【火】をいただき、人々が回心するために、おん父に近づくようにと願って、宣教をされておられたのです。しかし、人々は、イエス様の奇跡や律法学者たちと違った教えを喜んで聞くことはしても自分のこととして受け入れていなかったようです(ルカ4・14参照)。イエス様は、そのような人々の頑なな心に対して「火がすでに燃えていたらと、どれほど思っていることか」と吐露されます。
イエス様は、「わたしには受けなければならない洗礼がある」と言われます。イエス様は、洗礼者ヨハネから【洗礼】を受けられましたが、この【洗礼】とは、これからエルサレムでイエス様が受けられる「受難と死と復活」を意味しているようです。時々私たちは、「新社会人としての洗礼を受けた」というように、初めて組織の中で厳しい状況や経験をするときに「なになにの【洗礼】を受ける」という言葉を使います。イエス様もこれから向かう苦しみに対して同じような意味で【洗礼】を使われたのかもしれません。
イエス様は「それが成し遂げられるまでは、わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう」とご自分の辛さを伝えられます。イエス様は、神の子ですが、人としての苦しみも体験されるお方なのです。この【苦しみ】というのは、これから受けられる「受難と死」のことを指して言われていますが、もう一つ、私たちの【罪】のことを言われているのかもしれません。イエス様は、私たちの【罪】を贖ってくださいます。私たちの【罪】がイエス様の【苦しみ】を増していると言ってもいいのかもしれません。
イエス様は、「あなた方は、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。あなた方に言っておく。むしろ分裂である」と言われます。私たちはこの言葉を聞くとき、愛に満ちたイエス様が「むしろ分裂である」ということを言われているのですから、困惑してしまうのではないでしょうか。イエス様は、「わたしの平和をあなた方に与える。わたしは世が与えるように、これを与えるのではない」(ヨハネ14・27)と言われています。イエス様の平和は、自己中心の平和ではなくおん父がくださるアガペの愛に満ちた【平和】と言ってもいいのでしょう。
ですから、人々はイエス様が与えられる【平和】を受けた時、違和感を感じて【分裂】が起こってくるのではないでしょうか。イエス様は「一家に5人の者がいるなら、3人は2人に、2人は3人に対立して分かれる」と言われます。これは、ミカ書7章に出てくる言葉ですが、当時のユダヤ人社会の腐敗を表しています。そんな中でもミカは、「わたしは主を仰ぎ見る。わたしの救いの神を待ち望む。わたしの神は耳を傾けてくださる」(ミカ7・7)と信頼と希望を表しています。
人々は、イエス様の【火】と【平和】によって自分たちの弱さが露わにされ、相手の弱さを指摘し、お互いが分裂して行ったのでしょう。これは、私たちのエゴがおこす【分裂】と言ってもいいのかもしれません。私たちは、イエス様からの【火】と【平和】をあるがまま頂き、自己の罪を認めたうえで、心から「どうぞ罪深いわたしを清めてください」と祈ることができたらいいですね。