私たちの修道会で13年ぶりに助祭叙階式が行われました。この日は、本人もそして私たちの会にとっても恵みの日となりました。私たちは、この日のためにいろいろな役割を決め準備を行いましたし、彼も心の準備をして待っていたことと思います。日程が決まってそれに向けての準備はとても楽しみですし、心も体も気持ちが高鳴ってくるのではないでしょうか。
きょうのみことばは、『天に宝を積む』という教えから『目を覚ましていなさい』そして『忠実な僕と不忠実な僕』の場面です。このことは、イエス様が私たちに天の国へ向かうための【準備】について話されている場面と言ってもいいでしょう。この少し前に「あなた方はただ、天の国を求めなさい。そうすれば、これらのものも加えて、あなた方に与えられる」(ルカ12・31)とイエス様は言われています。そしてきょうのみことばの始めにイエス様は、「恐れることはない、小さな群れよ。あなた方の父は、あなた方にみ国を与えるのを喜びとされる」と言われています。
イエス様が言われる「小さな群れよ」というのは、弟子たちのことのようです。この頃の大きな群れと言うのは、ユダヤ教でしたから、イエス様に付いて行った「キリスト者」は本当に【小さな群れ】だったのです。しかし、イエス様は、その【小さな群れ】に対して「あなた方の父は、あなた方にみ国を与えるのを喜びとされる」と言われています。イエス様は、たとえ【小さな群れ】であっても、ご自分に付いて来ている限り天の国におん父が喜んで迎え入れてくれると約束されているのです。
イエス様は、「あなた方の持ち物を売って、施しなさい」と言われます。このことは、文字通り物質的に自分の財産を売って施す、とも言えますが、私たちの時間や能力や知識、祈りや優しい声かけなど【私の全て】を使って奉仕をすることと言ってもいいでしょう。これらの小さな奉仕は、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさないような【天の国】の銀行に蓄えられことでしょう。
イエス様は、弟子たちに「腰に帯を締め、ともしびをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたいたら、すぐに開けようとして待っている人のようでありなさい」と言われます。当時の婚宴は「真夜中や夜明けごろ」とありますように、いつ終わるか分からないほど長かったようです。イエス様は、「僕たちが、いつ帰ってくるかわかならない主人を夜通し待っているような人であってください」と弟子たちに言っておられます。弟子たちからは、「えっ、そんなに待てません」と言う声が聞こえてきそうです。しかし、私たちがその主人のことを心から愛しているのでしたら、待てるのではないでしょうか。
イエス様が言われる「腰に帯を締め、ともしびをともしている」ということは、弟子たちの姿勢、心構えを表しているようです。ですから、弟子たちはイエス様の愛に応えようとして、無理をすることなく、遅く帰ってくる主人を待つことができるのではないでしょうか。そして、そのように待っていた僕たちに主人は、帯を締め、食卓に着かせ、そばに来て給仕してくださるのです。この食卓は、地上の食卓ではなく、天の国の食卓のようです。イエス様は、おん父が弟子たち(私たち)を天の国に迎え入れられた後に、ご自身から弟子たち(私たち)に給仕してくださると言われているのではないでしょうか。
イエス様は、「盗人がいつやって来るかを知っていたら、……だからあなた方も用意していなさい。思わぬ時に、人の子は来るからである」と言われます。みことばは、イエス様の【再臨】のことを伝えているようです。しかし、今の私たちは、【再臨】と同時に私たちが天の国に召される時のことと言ってもいいのかもしれません。イエス様は、私たちの一生がいつ終わるかは分からないものですから、いつ召されてもいいように【用意】をしておくことが大切なのですよと、言われているのではないでしょうか。
さらに、イエス様は、管理人の喩えを用いて、彼に与えられた仕事を忠実に果たしている管理人と、主人の思いを知りながら、何も用意をせず、思いにかなうことを行わない管理人のことを伝えます。きょうのみことばの中に【見られる僕は幸いである】という言葉が度々出てきます。この忠実な管理人も婚宴に出かけた主人を待っている僕も、イエス様がいつ来られてもいいように【用意(準備)】をしています。しかし、不忠実な管理人は、主人の思いを知っていながら用意をしないばかりか、下男や下女にひどい扱いをしていました。イエス様は、そのような管理人に対して多くの鞭打ちという罰が与えられる、と言われます。
イエス様は、「多く与えられた者はみな、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」と言われます。このことは、私たちにとってかなり厳しい言葉ではないでしょうか。しかし、私たちがいつも、腰に帯を締め、ともしびをともしているところを見られるように心がけていれば、イエス様の要求に応えられるのではないでしょうか。私たちは、日々の生活の中でイエス様から「幸いな僕」と言われるように過ごせたらいいですね。