「客と招待する者への教訓」がテーマになっていますが、宴会などの席で、だれをどこに座ってもらうかはけっこう気を遣うものです。
1984年の11月下旬に司祭に叙階されましたが、一週間後、郷里の西木場教会で初ミサをささげました。ミサ後、母や兄弟たちが初ミサの祝賀会を催してくれましたが、結婚式の場合と同様にだれをどこに座ってもらうかはけっこう難しかったようです。歴代の主任司祭が4名(私が小学生時代の主任司祭、修道院入会後の主任司祭、大神学生時代の主任司祭たち)、現在の主任司祭、近辺の教会の主任司祭たち。みんな同等の立場であるため、席順には気を配ったとのこと。
今日のみことばで「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい」と言います。とは言っても、おいしい料理がありそうなら、上席に行きたいのが人のさがです。そんな時こそ、謙遜にならなければならないのでしょう。「謙遜」のために、ギリシア語では「タペイノス」が使われています。これは「身分が低い」の意味の他に、「価値の低い」「へりくだった」「気落ちしている」「弱腰である」の意味もあります。こうした意味を並べてみると「謙遜」には、自信をなくしてしまったような内容も含まれています。それこそ謙遜の極みでしょうか。謙遜のモデルと言えば十字架上のキリストです。キリストのことばに「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)がありますが、これは、イエス自身が自信をなくしたようにも響いてきます。だからこそ、私たちもキリストの謙遜に惹かれるのかもしれません。
実りの秋が近づいてきました。格言にも「実るほどに、頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」とあります。季節とみことばに合わせて、謙遜の道を体得したいものです。