「異言」は、コリントの信徒にあてた第一の手紙の12章から14章に集中的に出てきます。ここで言われている「異言」は、意味不明で痙攣的なものではありません。異言は霊の賜物(カリスマ)であって、たとえ異言を話している本人が忘我的状態であって、言っていることが分からない状態であっても、他の人がこれを通訳することができました。異言を通訳する能力もまたカリスマでした。コリント教会の人々は、異言を非常に評価し、これに夢中であったようです。当時の人々の中には「異言」を天使の言葉ではないかと考える向きもあったようです。
聖パウロも異言をよく語ることができました。かれは「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」と言っています(コリントの信徒への第一の手紙14章18節)。しかし、パウロは異言に夢中になるコリントの信徒たちに対して、異言よりも重要なカリスマがたくさんあること、特に愛のカリスマを大切にするように諭しました。
異言は、キリスト教独自のものではありません。ユダヤ教をはじめ、他の宗教にも見られるものです。なお、新約聖書全体では、使徒言行録10章46節や19章6節にも、異言についての言及があります。
現代でも、多くはありませんが異言は語られています。大切なことは、霊の賜物としての異言に気づくことです。そして、霊の最高の賜物は、異言や奇跡にもまさって「愛」であることを、しっかりと心に刻み付けることではないでしょうか。