典礼暦の中で祝われる聖人は数え切れないほどたくさんいますが、福音書の中に名前が出てくる聖人となると、ごく少数の人に限られてしまいます。ヨセフ、マリア、洗礼者ヨハネ、十二使徒……、それ以外にはほとんどいないのですが、7月29日に祝われる聖マルタ、聖マリア、聖ラザロの兄弟姉妹はこの数少ない聖人です。
マルタとマリアは、ルカ10・38〜42に登場します。そして、ヨハネ11・1〜44にはマルタ、マリア、ラザロの三人すべてが登場します。ヨハネ福音書によれば、彼らはベタニアという村に住んでいました。イエスはこの兄弟姉妹を心から愛していたようです。ヨハネ11・1〜44では何回もこのことが述べられています(3、5、35節)。しかし、それほど愛していた割には、イエスの行動には不可解としか思えないようなところがあります。そこで今回は、このヨハネ11・1〜44を読みながら、イエスが人を愛する、神が私たちを愛してくださるとはいったいどういうことなのか、考えてみることにしましょう。
ラザロが病気で苦しんでいた時、イエスは別のところにいました。そこで、マルタとマリアは、イエスのもとに人をやって、このことを知らせました。愛している人が病気で苦しんでいるのですから、万難を排して一刻も早く駆けつけようとするにちがいない。だれもがそう思うことでしょう。ところが、イエスはそれから2日間動こうとしません。結局、その後にイエスはラザロのところに向かいますが、イエスが到着した時には、すでにラザロは死んで墓に葬られた後でした。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21、32節)。イエスに会った時、マルタもマリアもまったく同じようにまずこう叫んでいますが、それは二人の偽らざる気持ちを表しているといえるでしょう。だとすれば、なおのこと考えないではいられないのです。この兄弟姉妹のことを愛しているなら、どうしてイエスはすぐに彼らのもとに向かわなかったのだろうか。すぐに出発し、もう少し道を急げば間に合ったかもしれないのに……。
ところが、不思議なことにヨハネ福音書は、イエスが彼らを愛していたとわざわざ述べたその直後に、イエスがなお2日間そこに滞在したと記しているのです(5〜6節)。まるで、イエスは彼らを愛していたからこそ、わざと出発を遅らせたのだと言いたいかのようです。これはいったいどういうことなのでしょうか。
イエスは、なんのために出発を遅らせたのか、自ら説明しています。それは、神の栄光のため、神の子がそれによって栄光を受けるため(4節)、人びとが信じるようになるため(15、42節)でした。つまり、イエスはラザロを復活させることによって神の栄光を現し、人びとを信仰へと導くために、愛する人たち(マルタ、マリア、ラザロ)が望まないことをあえて行なったのです。逆に言うと、イエスは彼らを愛していたからこそ、彼らとの関わりを通して、神の栄光を現し、人びとを救いに導こうとしたのです。
愛するからこそ、人びとの救いのためにその人を用いる。そのために、愛する人に苦難を強いることになろうとも……。不思議なことです。しかし、このイエスの愛し方こそ神の愛し方を示すものなのです。神は、その最愛の独り子が苦難を受け、十字架上で死ぬことを望まれた、イエスを愛しておられるからこそ、人びとの救いのために、このようにふるまわれたのですから……。神はいつもこのような愛で人びとを包んで来られました。マルタ、マリア、ラザロに限らず、聖人と呼ばれる人たちの生涯がこのことを物語っています。彼らは、神に愛されれば愛されるほど、人びとの救いのために苦しまなければなりませんでした(殉教はその最たるものでしょう)。しかし、彼らは人びとの救いのために苦しまなければならない時、そこにこそ神の愛を感じ取っていったのです。
神は私たちをも愛してくださっています。問題は、私たちが神からどのように愛されることを望んでいるかということです。ついつい私たちは考えてしまいます。神は私たちを愛してくださっているのだから、私たちから苦しみを取り除いてくださるはずだと。しかし、人びとの救いのために私たちから苦しみがなくならないとすれば、実はそれこそ神が私たちを愛してくださっているしるしなのです。私たちが、この神の愛の神秘を理解し、自分の思いどおりに行かない時にこそ神の愛を実感することができるよう、マルタ、マリア、ラザロの取り次ぎを願うことにしましょう。