第一朗読の中に、ソドムとゴモラの話が登場します。正しい人が50人→45人→40人→30人→20人→10人と徐々に人数が減っていきます。アブラハムが「主よ、どうかお怒りにならずにもう一度言わせてください」と語るのが何とも心が引ける言い方ではないでしょうか。主は「その10人のためにわたしは滅ぼさない」と言います。せっかちな私は、最初から「10人」と言ってしまいそうですが……。ともかくアブラハムはしきりに願い、それがかなえられます。
祈りには「願う祈り」「感謝の祈り」「賛美の祈り」「悔い改めの祈り」などがあります。日によって、状況によって祈りの形が変わるかもしれませんが、「祈り」は生活の中で欠かせないものです。ルカ福音書には祈りに関する箇所が数多く登場します。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受ける時(3・21)、イエスで12使徒を選ぶ時(6・12)、ペトロが信仰告白を行う時(9・18)、主の変容の時(9・28)、オリーブ山での祈りの時(22・39~46)。イエスにとって重要な出来事が起こる時には必ずと言っていいほど、祈りがなされています。そして今日の11章では祈りの原点とも言える「主の祈り」です。
この祈りの中で「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈ります。現実の世界からかけ離れたものではなく、身近なものを具体的に毎日願い求めます。目先のことに対する願いでもあり、そういったことでもよい願う祈りです。また弟子の一人がイエスに「わたしたちにも祈りを教えてください」という形で始まっていきます。まさにイエスへの素朴な願いです。
こうした祈りに接する時、私たちの祈りが素朴で具体的であっても、それらを聞き入れてくださるイエスがいることを思います。