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これってどんな種?

執拗に祈り続けるという種 年間第17主日(ルカ11・1〜13)

 きょうのミサの集会祈願に「主イエスは私たちに、あなたを父と呼ぶことを教えてくださいました。主のことばに従い、ともに祈るために集まったわたしたちを祝福し、聖霊の光で満たしてください」とあります。私たちは、心よりおん父に「聖霊の恵みをください」と祈ることができたらいいですね。

 きょうのみことばは、弟子たちがイエス様に「【祈り】を教えてください」と願う場面です。イエス様はエルサレムへと向かう中、ある所で祈られていました。きっと、これからエルサレムでの受難と復活のことを祈られていたのではないでしょうか。弟子たちは、その祈られているイエス様の姿を見て、自分たちも「祈ってみたい」と思ったのでしょう。それほど、イエス様の祈る姿が彼らにとって何か特別なものと映ったのではないでしょうか。【祈る姿】は、周りの人に豊かな影響を与えるのかも知れません。

 イエス様は、弟子たちに「父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように」と教え始められます。この祈りは、私たちがミサの時、ロザリオの時、特別な意向を持って祈る時など何度も祈っている【主の祈り】です。イエス様は、最初に「父よ、み名が聖とされますように」という祈りから始められます。この【父よ】と言うのは、子どもが「お父ちゃん」と言うような親しみを込めた言葉のようです。ルカ福音書では、おん父に対して身近な存在として表しています。パウロは、「あなた方は、人を恐れに陥らせ、奴隷とする霊を受けたのではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と叫んでいます」(ロマ8・15)と言っています。パウロは、「他の宗教の神と違って自分たちの【主なる神】は『人を恐れに陥らせ、奴隷とする』のではなく、子どもが親しみをこめて呼ぶようなお方なのですよ」と人々に伝えていたのでしょう。また、私たちがおん父に「お父ちゃん」と呼ぶのも【霊】の力から来るものですよとも伝えています。

 『主の祈り』の中に「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも負い目のある人をみな、わたしたちも赦します」と言う祈りがあります。イエス様は、私たちがいろいろな弱さを持っていて、罪を犯してしまうことをご存知です。ですから、イエス様は、「わたしたちの罪をお赦しください」という祈りを示されたのではないでしょうか。イエス様は、「7の70倍も赦しなさい」(マタイ18・22参照)と【赦し】について話されました。私たちは、人から赦された時の安らぎ、喜びを知っています。ですから、その喜びを知っているので自分に負い目を持っていることができるのではないでしょうか。また、同時にイエス様は、私たちが「人を赦すこと」ができないこともご存知なのです。イエス様は、まず、私たちの罪をおん父に祈って赦していただくこと、そして、私たちがおん父のアガペの愛によって赦された喜びを持って、「『負い目のある人を赦します』と祈りなさい」と言われているのではないでしょうか。

 イエス様は、具体的に「ある人の所に来た友人をもてなそうとした人」の喩えを用いて話をされます。当時は、友達が旅の途中で寄った時にもてなすという習慣があったようです。彼は、自分の所にその友をもてなす「パン」すらないほど貧しかったのです。それで彼は【友人】の所に行って「友よ、パンを3つ貸してください」と頼みます。みことばには、「真夜中に」とありますから、周りの家は、もう寝静まっていたことでしょう。彼の声は、扉越しにお願いするので大きな声となり、静かな町の中で近所の家々に響き渡ったのではないでしょうか。

 彼は、どんなに惨めな気持ちだったことでしょう。それでも彼は恥も外聞もなく、訪ねてきた友人をもてなすために「パンを3つ貸してください。何も出すものがないから」と頼みます。みことばには「その執拗さに起き出して」とありますから、彼は何度も頼んだのでしょう。その友人は、彼が必要なものを【何でも】貸してあげます。この姿はおん父の姿と言ってもいいのではないでしょうか。

 イエス様は、譬え話を話された後「あなた方に言っておく」と強調され、「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」とおん父への【祈る姿】を伝えます。この姿は、前の譬え話の【執拗さ】を表しているとともに、アブラハムがソドムを滅ぼそうとしている主なる神に「7度」も「滅ぼさないように」と願ったような【執拗さ】(創世記18・20〜32参照)とも言えるのではないでしょうか。

 イエス様は、私たちがおん父に子どもが「お父ちゃん」と言って祈り求め、さらに何度も【執拗】に祈り時、「『誰でも求めるものは受け、探す者は見出し、たたく者は開かれる』とおん父が聞いてくださる」と示してくださっているのではないでしょうか。イエス様は「天の父がご自分に求める者に聖霊を与えてくださるのは、なおさらのことである」と言われます。

 聖霊は、私たちをおん父の所に向かわせる風です。おん父は、私たちがどんなに罪を犯してご自分から離れて行ったとしても、『放蕩息子』の父のように両手を広げて向かい入れてくださいます。私たちは、おん父のアガペの愛に信頼し、イエス様とともに祈り続けることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  2. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

  3. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

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