キリシタン禁教令が解かれた後の一八七三年七月、プティジャン司教の要請に応じて四人の宣教師が来日し、そのうちの一人フレノー神父は長崎に派遣された。彼は主に五島列島を巡回し、同年十二月二十四日の夜、五島で初めてのクリスマスミサを捧げた。約千人の信徒が集まったと言われる。一八七七年、フレノー神父は五島列島の担当となり、長崎から年に四回のペースで巡回した。例えば第一回目(一八七八年一月~三月)だと、長崎を出発して、福江島のおお大どまり泊→堂崎→くす楠はら原→み三い井らく楽のだけ岳→ふち淵ノもと元→ひさ久か賀じま島→上五島の鯛ノ浦→中ノ浦→おお大びら平→奈摩→曽根→江袋→仲知→野崎島の野首→鯛ノ浦から長崎に戻るというコースで、今の時代とは違い、北西の風が吹く冬は海も荒れ、死を覚悟しての巡回であっただろう。やがてフレノー神父は五島常駐となり、一八七九年、堂崎に仮聖堂を建てた。
同年、マルマン神父が下五島に派遣され、信徒たちは教会を建てていく。一八八〇年五月にだけ岳教会、七月にたち立や谷教会、一八八一年三月に大泊教会、十月に浜脇教会、一八八二年二月に堂崎教会が建てられた。この頃、マルマン神父は間引きという痛ましい実態を知り、まず子どもを救済するための施設(現在の奥浦慈恵院)を大泊の民家を借りて作った。大泊が狭くなると、堂崎に子部屋を移し、保母として働く修道女を育成する女部屋(現在のお告げのマリア修道会奥浦修道院)を作った。この施設は、一九〇九年には奥浦慈恵院に発展し、五島の模範的な社会福祉施設となった。マルマン神父のあとを継いだペリュー神父は、増えていく信徒たちのために、フランスからの援助金を利用して一九〇八年、レンガ造りの堂崎天主堂が建てた。ペリュー神父の設計、福江の棟梁・野原与吉の施工で行われた。この時、教会建築の第一人者ともなった鉄川与助は、野原与吉のもとで修業していた。六十年間、教会として使われ、現在はキリシタン資料館となっている。
堂崎天主堂には何度なく訪問したことがある。教会の傍は海辺で、満潮の時は海面に教会が反射してとても美しい。一方、干潮の時は海底が見えてしまうので、満潮時に合わせて訪問するとよい。教会は日本二十六聖人にささげられ、教会内には彼の聖遺物が展示されている。庭には五島出身の殉教者でもある聖ヨハネ五島の殉教像がある。またこの教会出身の中村長八神父ゆかりのイヌマキの木が植えられている。「一八六五年、五島列島奥浦村浦頭の地に生を受けた中村長八師は、司祭叙階後二十六年を奄美大島で、その後の十七年を日本人最初のカトリック海外派遣宣教師としてブラジルの地に生涯をささげられました。七十五年の生涯は、宣教そのものの人生でした。このイヌマキは、ブラジル出発の直前、奄美より浦頭の生地へ移植し、大木となった木の子孫となるものです」と記されている。