聖ハインリッヒは、バイエルン公爵の息子として、973年(あるいは978年)5月6日にバイエルンで生まれました。ハインリッヒは、幼少期より司祭になるための教育を受けました。この時代に、彼は将来司教になる多くの仲間と知り合いました。しかしながら、周囲の状況は彼が司祭の道に進むことを許しませんでした。こうして、彼は995年に父親の跡を継いでバイエルン公爵となりました。その後、神聖ローマ皇帝オットー3世の急死を受け、1002年に皇帝に選ばれました。
ハインリッヒは、帝国の安定のため各地を巡り、反対派諸侯の説得にあたりました。また、イタリア半島に3度にわたって赴き、ローマ教皇を助け、教会会議を主宰しました。帝国内部でも、数々の司教館を訪れ、教区の刷新に努めるとともに、新しい教区の設立もおこないました。諸侯の勢力争いと各教区の利権が複雑に絡み合うこの時代の中にあって、ハインリッヒは教会の保護者として、忍耐強く行動し続けたのです。彼は1024年7月13日にゲッティンゲンで亡くなります。その遺体は、彼が設立したバンベルグ教区の司教座聖堂に埋葬されています。
聖ハインリッヒの記念日は、彼が帰天した日である7月13日です。聖ハインリッヒを荘厳に祝うミサでは、マタイ福音書7章21-27節が朗読されます。この個所は、山上の説教(マタイ5~7章)の中のイエスの最後の教えにあたります。まず、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入るのである」(5・21)と言われます。この教えは、しばしば「主よ、主よ」と呼びかけるだけで行動しない人と、実際に行動する人とを対比し、行動する人が天に入ると言っているように受け止められます。しかし、次に続く終わりのときのたとえでは、滅びに至る人たちは、自分が生前に多くの行動をしたと主張しているのです。しかも、すべて立派な行動です。「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか」(5・22)。しかし、イエスは言われます。「わたしはお前たちをまったく知らない。悪を行う者ども、わたしから離れ去れ」(5・23)。ここで、天の国に入る人とされているのは、単に行動している人のことではありません。「天におられるわたしの父のみ旨」を行う人のことなのです。どんなに善いわざをおこなっても、どんなに信仰に基づいていても、それが父である神のみ旨でなく、自分が良かれと思ってしたことであるなら、それは天の国に通じる道ではないのです。
この「天におられるわたしの父のみ旨」とは、イエスが山上の説教などで語っておられる言葉をとおして明らかにされます。だから、イエスは「これらのわたしの言葉を聞き、それを実行する者はみな、岩の上に家を建てた賢い人に似ている」と言われ(5・24)、「これらのわたしの言葉を聞いても、それを実行しない人は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と言われるのです(5・26)。ここでも単に行動するか、行動しないかが問われているのではなく、神のみ旨を示すイエスの言葉を実行するかどうかが問われているのです。
ところで、この「家を建てる人のたとえ」はルカ福音書にも同じような教えが記されています(ルカ6・47-49)。しかし、この2つの教えには大きな違いが見られます。ルカ福音書の場合、「わたしの言葉を聞き、それを実行する人」は、「地を深く掘り、岩の上に土台を据えて家を建てた人」にたとえられています(6・48)。掘り下げられた土台の屈強さがイメージされています。また、「聞いてもそれを実行しない人」は、「土台もなく、土の上に家を建てた人」にたとえられています(6・49)。これは、土台を掘って家を建てるという、ギリシア的な建築様式に基づいた教えです。一方で、マタイ福音書の場合、土台が掘り下げられたかどうかは問題にされていません。違いは、岩と砂のどちらの上に家を建てたかということだけです。そもそも、ユダヤ的な建築様式は、土台を掘ることなく、地面に石を積み重ねていくというものでしたから、土台の堅固さが問題でないのは明らかです。では、砂の上に家を建てた人の問題はどこにあるのでしょうか。おそらく、それはパレスチナ地方特有の気候風土に由来するものと思われます。この地方では、一年は雨季と乾季の二つの時期に区分されます。乾季にはほとんど一滴も雨が降りません。このため、多くの川は干上がってしまいます。そして、雨季になると大雨が降り、再び川が流れるようになります。地表を床面とする家の建て方ですから、ごつごつした岩地とさらさらとした砂地のどちらが快適かと言えば、砂地のほうです。しかし、砂地は雨季になれば川が流れる場所となる危険性があります。岩地に川が流れることはありません。このように、マタイ福音書では、その場での快適さを選び取り、滅びを招き入れてしまう生き方と、今は不自由であっても未来の救いを選び取る生き方が対比されているようです。山上の説教で語られているイエスの教えは、簡単な生き方を命じているわけではありません。それは、しばしば苦労と忍耐を伴う生き方です。だからと言って、実行しない人は、天の国の救いを放棄する「愚かな人」(マタイ7・26)です。逆に、今、苦しんだとしてもイエスの言葉を実行する人は、天の国に入ることができる「賢い人」(7・24)なのです。
聖ハインリッヒは、皇帝の地位と生活に満足することはありませんでした。神聖ローマ皇帝として、教会の保護者として、神の求められていることを見つめ、これを果たそうとしたのです。諸侯が権勢を争う帝国を一つにし、教会の刷新に努めるためには、多くの困難に遭遇し、大きな忍耐が必要だったはずです。しかし、彼は神のみ旨に従ってこれを実行しました。今のわたしたちにとっても、現実の中でイエスの言葉を実践するのは容易なことではありません。わたしたちも、快適さ、便利さにまどわされることなく、天の国の救いを見つめて、何が賢い道なのかを見定めて、神のみ旨を忍耐強くおこなっていく道を選び取っていくことができればと思います。