以前、四国の円通寺で、空海の直筆の文字を見て、その美しさに感動したことがあります。パウロの直筆の手紙が残っているなら、私も是非見たいと思いますが、残念ながらパウロ直筆の手紙は一つも残っていません。
実はパウロの手紙ばかりでなく、新約聖書に収められた27書のどれひとつとして、オリジナルは残っていません。残っているのは、書き写しされたコピー(写本)だけです。この写本を通して、パウロの手紙は私たちに伝えられました。
ただ写本はコピー機によって作られたのではなく、人間が書き写したものです。読み違い、読み飛ばし、書き違い、意図的な書き換えなど、オリジナルからの逸脱が多数指摘されています。そのため、たくさんの写本からオリジナルを推測する作業はとても困難な研究作業ですが、無くてはならない重要な仕事で、今日でも続けられています。
ギリシア語写本には、大きく分けてパピルス、大文字写本、小文字写本の三種類があります。断片も含めると、その数およそ六千だそうです。その中で最古の写本と言われるのは、大きさ8・8×6・3センチほどのパピルスの断片です。この写本はP52と呼ばれています。Pはパピルスに書かれた写本である事を表し、52は資料整理のための通し番号です。これは二世紀の半ば頃に書かれたと考えられていますが、発見された場所はエジプトです。小アジアのエフェソで記されたと伝えられるヨハネ福音書が、既に二世紀の半ばにはエジプトにまで伝えられていたということです。
やがて、写本の材料としてパピルスに代わって皮紙が用いられるようになりました。現存する最古の皮紙の写本は、ヴァチカン写本で、これはヴァチカン図書館に所蔵されています。この写本の略号はBです。Vではありません。Bの成立年代は四世紀中頃と言われますから、ローマ帝国によるキリスト教の公認という追い風を受けて作成されたものでしょう。全文が大文字で書かれています。
大文字による写本はたくさんの皮紙を必要とするため、やがて小文字による写本作りが盛んになりました。大文字写本から小文字写本への転換点は十世紀です。小文字による写本の作成は、グーテンベルグの活字印刷の発明まで続けられました。
今お話したパピルス、大文字写本、小文字写本のなかで、最も重要な写本は大文字写本です。
パウロの直筆の手紙は残されていませんが、その写本を見ることは可能です。重要な大文字写本である「シナイ写本」や「アレキサンドリア写本」は、ロンドンの大英博物館に常時展示されていますから、折があったら、是非ご覧になってください。