ウルガタ訳 ラテン語聖書
既にみたように、二世紀初頭にはラテン語訳が存在したことが知られるが、それは七十人訳ギリシア語聖書を底本としたものであった。ヒエロニムス(347–420)は教皇ダマススの依頼を受けて、その改訂版の作成に着手する。それはローマ滞在中のことで、福音書と詩編のラテン語訳の校閲から始まる。その後ベトレヘムに転居した後、七十人訳ではなく、ヘブライ語版に基づくラテン語訳に着手する。393年に詩編とサムエル記・列王記を刊行、翌年にエズラ記・ネヘミヤ記、398年にエゼキエル書、箴言・コヘレトの言葉・雅歌、404年頃にモーセ五書、ヨシュア記・士師記・ルツ記を刊行、405年にエステル記を刊行。この間に他の諸書も刊行されているが、年代を特定するのは困難。これがヴルガタ訳と言われるものである。
・ウルガタ訳の普及
当初は「先人に対する軽蔑」として反発を招く。アウグスティヌスも初めは好意を示さなかった。彼は『神の国』で七十人訳について論述しているが、その成立の伝説に言及し、このギリシア語訳の段階でも「神感」の働きがあったと述べている。
しかし、徐々に普及。それに貢献したのは、五世のエクラヌムのユリアヌス、カッシアヌス、六世紀のグレゴリウス一世、セビリャのイシドルス、ベダ等。イタリアから広まり、七世紀には西欧全域に普及した。
・公認
トリエント公会議(1545—63)において、ウルガタ訳が権威あるもの(authentica)であると宣言され(DS1504—506)、その批判校訂版の発行を決定した(DS1508)。その校訂版は、シクストゥス五世のもとに1589年に印刷されるが、その校訂は血管の多いものであったので出版は中止された。1592年に、クレメンス八世のもとで、新たな改訂版が刊行される(『シクスト・クレメンティーナ版ウルガタ訳聖書』)。
『聖ヒエロニムス修道院の修道者たちによる聖書ウルガタ訳版』
ピウス十世の承認(1907年)もとで、教皇庁立聖書委員会の委託を受けて、ベネディクト会によって1962年から刊行された。
『新ウルガタ訳』
第二ヴァティカン公会議後、パウロ六世によって「ウルガタ訳を聖書の原典に従って改訂し、カトリック教会の典礼などにおける公式な使用のための新ウルガタ訳聖書を作成するための委員会を設立し、この委員会によって完成された」もの。1979年にヨハネ・パウロ二世のもとで公刊され、1987年にその校訂版が出された。「この新ウルガタ訳は、旧ウルガタ訳が原文の意味を正しく伝えているところは、それをそのまま残し、誤訳あるいは意味が不明瞭と思われるところは、文体の統一をできるだけ保持しつつ、それを訂正している」(和田幹男『新カトリック大事典』、p.705)。
Veritas GraecaからVeritas Hebraica、そしてVeritas Latinaへ
東方教会、ビザンティ教会では一貫して七十人訳聖書を正典として用いている。西方教会はアウグスティヌスの時代までは七十人訳を正典聖書として用いていたが、ヒエロニムスのヴルガタ訳が普及するとともにヘブライ語からのラテン語訳が一般に用いられるようになる。ここにVeritas GraecaからVeritas Hebraicaへの移行が起きたと言えよう。プロテスタント教会はヒエロニムスの見解を受け入れVeritas Hebraicaの立場に立つ。これに対して、ローマ・カトリック教会はヴルガタ訳を公認することでその立場は微妙なものとなる。つまり、ヴルガタ訳が七十人訳から決定的に決別したものではないところに、それは由来する。その典型的な例が詩編である。ヘブライ語版の詩編と七十人訳の詩編では番号にずれがある。それはヘブライ語版が第9と第10を区別するのに対して七十人訳はそれを第9として一つのものとみなすこと、ヘブライ語版が第147と一つのものとみなしているのを七十人訳は第146と第147として二つのものとみなすことによる。今でもヴルガタ訳は七十人訳の番号に従っているので、典礼においては近代語の翻訳とずれがみられる。
ヴルガタ訳 詩編に関して
・ローマ詩編(psalterium romanum)
ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂だけに残っている古ラテン語訳詩編。
ヒエロニムスはこれの改訂版を作成していないが、これを知っており、後の詩編の改訂作業の際にこれを利用したとする説が有力。
・ガリア詩編(psalterium gallicanum)
386年にパレスチナのベツレヘムに移ったヒエロニムスは旧約聖書の改訂作業に取り組む。それに際して、この地で手に入れたオリゲネスの『ヘクサプラ』を入手し、そこに帰された 校訂本文を底本としている。第二正典を除く旧約聖書の全書を改訂しているが公表したのは、ヨブ記、詩編、箴言、コヘレト、雅歌、歴代誌上・下のみ。この詩編は後に、ガリア地方に広まったのでガリア詩編と呼ばれる。
・ヘブライ詩編(psalterium iuxta hebraeos )
390年に、ヒエロニムスはヘブライ語本文と照合した改訂版の作成に着手する。その動機は、「キリスト教徒はユダヤ人の嘲笑を招くような訳文で聖書を読んではならず、ユダヤ人の聖書を何よりも優先すべきだ」(和田幹男『新カトリック大事典』一・p.704)という信念にある。391年に詩編の改訂版を完成する。これをヘブライ詩編と呼ぶ。
・付記
アッシジの聖フランシスコは『勅書によって裁可された会則』の中で次のように述べる。
「聖職者[の兄弟たち]は、詩編を除き、聖なるローマ教会の規定に従って、聖務日課を唱える」(第三章 1)。
これは「ローマ詩編」ではなく、「ガリア詩編」を用いることを意味している。
詩編142(141)
・アシジのフランシスコが死を前にして唱えた詩編
ボナヴェントゥラの『聖フランシスコの大伝記』(十四・5)に次のようにある。
この優しい訓戒の言葉を語り終えると、いとも愛すべき神の人[フランシスコ]は福音書を持ってくるように命じ、ヨハネによる福音の「過越の祭りの前に」で始まる箇所を読んでくれるように頼んだのでした。そして、彼自身は力の続く限り、次の詩編を唱え続けていました。「わたしは声を挙げて、主に呼び求める。声を挙げて主に願い求める。」そして、「正しい人々がわたしを待ち望んでいます、あなたがわたしに報いてくださるまで」という最後の行まで唱え終えました。
・ラテン語ヴルガタ訳では
Voce mea ad Dominum clamavi
Voce mea ad Dominum deprecates sum. で始まり
Educ de custodia animam meam
Ad cofitendum nomini tuo;
Me exspectant iusti donec retribuas mihi.で終わる
・1945年のピオ12世認可の改訂版では
Voce magna ad Dominum clamo
Voce magna Dominum obsecro で始まり
De carcere educ me,
Ut gratias agam nomini tuo.
Iusti circumdabunt me,
Cum bene feceris mihi. で終わる
・現行の Liturgia Horarum の詩編では
Voce mea ad Dominum clamo
Voce mea ad Dominum deprecor;で始まり
Educ de custodia animam meam
ad cofitendum nomini tuo;
circumdabunt me iusti,
cum retribueris mihi.で終わる
・邦訳をみると
『教会の祈り』の詩編は
声をかぎりに神を呼び求め、
わたしは大声で神に祈る。・・・・
わたしを捕われの身から救い出してください。
わたしは救いの恵みを感謝し、
あなたに従う人のつどいの中で
あなたの名をたたえる。
・新共同訳では
声をあげ、主に向かって叫び
声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。・・・・
わたしの魂を枷から引き出してください。
あなたの御名に感謝することができますように。
主に従う人々がわたしを冠としますように。
あなたがわたしに報いてくださいますように。
・フランシスコ会聖書研究所訳(合本)では
わたしは声を限りに主に叫び、
大声をあげて主に願います。・・・・
わたしを獄(ひとや)から助け出し、
あなたの名に感謝させてください。
あなたがわたしを恵まれるので、
正しい者たちがわたしの周りに集まるでしょう。
「真昼の悪魔」(詩90[91]・6)
新共同訳 「真昼に襲う病魔」
フランシスコ会聖書研究所訳 「真昼に忍びよる災い」
注(4)に、古代語訳では「真昼の悪魔」とある。
岩波版 「真昼に襲う病魔」
注(15)に、七十人訳では「真昼の災難と悪魔」とある。
バルバロ訳 「真昼に荒らす疫病」
新改訳(第三版) 「真昼に荒らす滅び」
聖書協会訳 「真昼に荒らす滅び」
七十人訳 apo syptômatos kai daimoniou mesēmbrivou
ウルガタ訳 Ab incursu, et daemonio meridiano
ウルガタ訳(1945年にピオ12世によって典礼用に認可された版)
A pernicie quae vastat meridie
Liturgia horarum(『教会の祈り』のラテン語版)の詩編
Ab extreminio vastante in meridie
Perniciesは「破滅、破壊、滅亡」
Extreminiumは「破壊、放逐」の意味
オリゲネス・ヒエロニムス『詩編講解』
Ab incursu et daemonio meridianoのテキストを注解する
ただし、ab incursuはギリシア語ではapo syptômatosであり、
Syptômatosとはeventusのことであり、
「予期しないときに、何事かが起きること」
「多くの人が一緒に倒れること」の意味であると注解している。
尚、incursus は「襲撃」、eventusは「事件、出来事」の意味
ポントスのエヴァグリオス(345—399)
・『修行論』12
倦怠(アケーディア)の悪魔は「真昼の悪魔」(詩九〇[九一]・6)とも呼ばれるが、これはあらゆる悪魔のうちでも最も重苦しいものであり、第四の刻(午前一〇時)頃に隠修士に襲い掛かり、その魂を第八の刻(午後二時)頃まで攻囲する。まず初めに、太陽が動きを鈍らせたと思わせたり、動きを止めたと思わせ、一日が五〇時間もあるかのように思わせる。次いで、絶え間なく窓辺を見つめさせ、修房から飛び出すように仕向け、第九の刻(正午)になるにはまだどれくらいあるかと太陽の動きを測り、兄弟の誰かが[来わしまいか]ときょろきょろと見回させるのである。さらにまた、その場所に対する、その生活そのものに対する、手仕事に対する嫌悪感を彼に生じさせ、兄弟たちの間から愛が消えてしまったとか、慰めてくれる者はいないといった思いを生じさせる。そして、近頃、その兄弟を悲しませた人がいようものなら、憎悪を募らせるために、それをも悪魔は利用するのである。また、必要としているものを簡単に手に入れることができ、安易で実入りの良い仕事を行うことのできる、別の場所への願望を駆り立て、主に嘉されるのは場所によるのではないと言い添え、神(to theion)は至る所で礼拝されうる(ヨハ四・21―24)からであると、言うのである。そして、以上のことに家族のことや以前の生活の思い出を結び付け、禁欲・苦行(askêsis)の労苦を目の前にさらけ出しつつ、[これからの]人生が長いものであることを描き出し、よく言われるように、隠修士が修房を棄てて、競技場から逃げ出すように、あらゆる術策を総動員するのである。この悪魔の後に、直ちに別の悪魔が近づくことはなく、戦いの後、魂には平和な状態と言葉では言い表わせない喜びが到来することになるのである。 (修行論 12)
フランシスコ会聖書研究所訳注分冊刊行年度
1958年12月『創世記』
1959年7月『レビ記』
1960年7月『知恵の書』
同年9月『トビト書、ユディト書、エステル書』
1961年12月『出エジプト記』
1962年7月『マルコによる福音書』(初版)
1963年3月『マカバイ記上・下』
1964年11月『ホセア書』
1966年7月『マタイによる福音書』
1967年3月『ルカによる橿音書』(初版)
1968年12月『詩編』
1969年9月『使徒行録』
同年11月『ヨハネによる福音書』(初版)
1970年10月『全キリスト者への手紙(ヤコブ、1,2ペトロ、1,2,3ヨハネ、ユダ)』
1971年9月『マルコによる福音書(改訂版)』
1972年3月『黙示録』
1973年12月『パウロ書簡I(ローマ、ガラテヤ)』
1975年10『パウロ書簡IV(1,2テモテ、テトス)、ヘブライ人への手紙』
1977年12月『パウロ書簡Ⅱ(1,2コリント)』
1978年12月『パウロ書簡Ⅲ(エフェソ、フィリピ、コロサイ、1,2テサロニケ、フィレモン)』
1979年11月 『新約聖書』(合本)(初版)
1980年12月『シラ書(集会の書)』
1981年10月『コヘレト(伝道の書)、雅歌』
1983年5月『箴言』
同年12月『サムエル記上・下』
1984年10月 『新約聖書』(合本)(改定版)
1985年12月『ヨハネによる福音書』(改定新版)
1986年2月『民数記』
同年6月『ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書』
同年11月『ヨブ記』
1988年6月『ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書、哀歌、バルク書、エレミヤの手紙』
同年12月『エズラ記、ネヘミヤ記』
1989年5月『申命記』
1990年7月『ダニエル書』
1991年11月『ヨシュア記』
1993年5月『士師記、ルツ記』
1995年8月『列王記上・下』
1996年3月『エゼキエル書』
1998年8月『歴代史上・下』
2000年12月『イザヤ書』
2002年4月『ルカによる福音書』(改定新版)
2002年9月『エレミヤ書』
古代のギリシア語訳聖書
『七十人訳』
伝説によれば、プトレオイオス二世フィラデルフォス(在位前283-246)がエルサレムから招いた72人の翻訳者によって、72日で完成されたとされる。実際には、ヘブライ語に疎くなったアレクサンドリアのユダヤ人の礼拝上の必要に迫られて斬時翻訳された。フィラデルフォスの時代にモーセ五書から着手され、前二世紀半ばには旧約の殆どの書が翻訳されていた。ディアスポラ(離散)のユダヤ人のもとでは公式なものとして会堂での朗読に用いられるようになり、キリスト誕生の頃には広く一般的なものとなっている。
『アクイラ訳』
小アジアのポントス出身のユダヤ教改宗者アクイラによって、130年頃翻訳された。その翻訳は、時としてはギリシア語文法を無視するまでに逐語的なものであった。ユダヤ教の会堂で、七十人訳に代わって、広く用いられることになる。
『シュンマコス訳』
エビオン派(ユダヤ人キリスト教徒のグループ、律法の文字通りの遵守、イエスを普通の人間とみなすことを特徴とする)シュンマコスによって二世紀半ばに翻訳された。その翻訳はアクイラ訳以上に原語に忠実であるが、洗練されたギリシア語訳であった。
『テオドティオン訳』
エフェソ出身のユダヤ教改宗者テオドティオンによって二世紀末に翻訳された。この翻訳はマソラ本文に密着して七十人訳を改訂したもので、ヘブライ語の特殊な単語および表現の多くがギリシア文字に音訳されているのが特徴の一つである。
古代のラテン語訳聖書
『古ラテン語訳』
七十人訳からのラテン語訳。二世紀に北アフリカ/ローマで翻訳
『ヴルガタ訳』
教皇ダマススの依頼を受けヒエロニムス(347–420)によるラテン語訳。ローマ滞在中、福音書と詩編のラテン語訳の校閲から始まる。その後ベトレヘムで、七十人訳ではなく、ヘブライ語版に基づくラテン語訳に着手する。393年に詩編とサムエル記・列王記を刊行、翌年にエズラ記・ネヘミヤ記、398年にエゼキエル書、箴言・コヘレトの言葉・雅歌、404年頃にモーセ五書、ヨシュア記・士師記・ルツ記を刊行、405年にエステル記を刊行。この間に他の諸書も刊行されているが、年代を特定するのは困難。
古代教会の聖書釈義
・キリスト教における最古の聖書注解書
ローマのヒッポリュトスによる『ダニエル書注解』(204年ころの作)
・グノーシス主義派の聖書注解
二世紀半ばころのグノーシス主義者ヘラクレオンがヨハネ福音書を注解している。
古代教会における聖書解釈論
・オリゲネス(185–254)『諸原理について』(De principiis)第四巻
・アウグスティヌス(354–430)『キリスト教の教え』(De doctrina Christiana)
『ヘクサプラ』(六欄組聖書)
オリゲネスによる旧約聖書の本文批判研究の書。七十人訳本文をヘブライ語版とギリシア語諸訳と比較対照するために、(1)ヘブライ語版聖書本文、(2)それをギリシア文字で書き換えたもの、(3)アクイラ訳本文、(4)シュンマコス訳本文、(5)七十人訳本文、(6)テオドティオン訳本文を併記したもの。七十人訳本文はオリゲネスの校訂になるもので、ヘブライ語版との異同を示すため、七十人訳には欠けている部分には*印を、ヘブライ語版にない部分には÷印が付されている。一貫して七十人訳を重視するが、それは七十人訳こそ使徒たちから教会に与えられたものであるという考えによる。