次に注目したいのは、先にアウグスティヌスの解釈論で言及しましたが、オリゲネスも聖書解釈に信仰の規範を結びつけていることです。
オリゲネスは、「『イエス・キリストによって恵みと真理がもたらされた』(ヨハネ一・17)と信じ、確信し、かつイエスご自身が『私は真理である』(同一四・6)と言われていることから、キリスト即ち真理であると知っているすべての人は、人々が善良かつ幸福に生活するための知識を、キリストの言葉そのもの並びにその教えからのみ得ようと心がけている」という言葉をもって『諸原理について』を始めます。まず初めにオリゲネスは、真理はキリストの言葉と教えの内に見いだされると表明しているのです。ここで言われるキリストの言葉とは受肉したキリストの言葉のみを言うのではなく、モーセから使徒たちに至るまでの間、彼らを通して語られたキリストの言葉並びに教え、即ち旧約・新約聖書の言葉並びに教えです。しかしながら、「キリストを信じていると公言している人々の間に、・・・・重要な点でも不一致が存在している」。このため、「確実な原則とはっきりした基準」となるものが求められることになります。それが「使徒たちから受け継がれ、守り継がれ、今に至るまで教会の内に保たれている教会の教え」、「使徒的伝承」なのです。これはキリスト教信仰の規範となるものです。その内容は九項目からなっています。その具体的な内容は、今回は割愛させていただきます。それらはキリストの言葉を信じる者が例外なしに受け入れねばならないものであり、いかに愚鈍な者であれ受け入れうるものであります。まさに、「使徒たちは、キリストへの信仰を宣べ伝えるときに、必要と思われる事柄をすべての信徒に宣べ伝えたのであって、神的知識を探求するには疎いと思われる人にも明確に伝えた」のです。
換言すれば、教会の信仰の中で聖書は読まれなければならないことが語られていると言えるでしょう。ここでも教皇の言葉が重なります。次のように言われています。
「キリスト教信仰は『書物の宗教』ではありません。キリスト教は『神のことばの宗教』ですが、この神のことばは『書かれた、ものをいわないことばではなく、受肉した生きたみことば』です。したがって、聖書は使徒伝承の流れの中で、神のことばとして朗読し、聞き、受け入れ、体験しなければなりません。聖書と使徒伝承を切り離すことはできないからです」(7. p.24)。
また、「信仰なしに聖書のテキストを開く鍵はありません」と述べ、中世の代表的神学者ボナヴェントゥラとトマス・アクイナスの言葉を引用しています。(29.p.60)
「聖書解釈の第一の場は教会生活です」(29.p.61)。
「聖書は教会の書であり、聖書が教会生活の中に置かれることから真の解釈が生まれます」(29.p.62)。
「聖書は旅する神の民の声そのものです。わたしたちは、この神の民の信仰の中で初めて、聖書を理解するためにいわば波長を合わせることができます。聖書の正しい解釈は、つねにカトリック教会の信仰と一致しなければなりません。そこでヒエロニモはある司祭にあてた手紙で述べます。『教えられた伝統的な教理から決して離れないようにしなさい。それは、健全な教えに従って勧告し、健全な教えに反する人々を論駁することができるようになるためです』」(30.p.62-63)。