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伝統的釈義と現代の釈義の相克

11. 三重の解釈――伝統的釈義と現代の釈義の相克

 こうして、オリゲネスの聖書注解書あるいは聖書講話では、彼の聖書観に即して、文字通りの意味、道徳的意味、霊的・神秘的意味の三重の解釈が提示されています。

 ところで、オリゲネスが言うところの「聖書の体」にあたる「文字通りの意味」あるいは「字義に即した意味」は、現代の聖書学者の理解とは異なっていると言わねばなりません。現代では、通常、聖書記者が表現しようと欲したことが「字義に即した意味」と言われます。オリゲネスにとっては、それは、あらゆる解釈の試みに先立つ、語られた生の素材を意味しています。例えば、聖書が表象もしくは譬えを用いて語っている場合、現代の聖書釈義家は、それらの表象もしくは譬えを通して聖書記者が表現したいと欲したことを「字義に即した意味」と呼びますが、オリゲネスにとってそれは霊的な意味なのです。特に、旧約聖書の講話においては、あまりにも早急に、字義に即した本文には文学的にも、心理的あるいは道徳的にも無意味であり、文字通りの意味は妥当性を欠くと結論したり、字義に即した意味がないわけではないが、無益であり、キリストの指令に反しており、遵守不可能であるから、キリスト者にはそれだけでは不十分であるとの考えを提示しています。この点で、オリゲネスは厳しく批判されます。しかしながら、彼の聖書講話は歴史を述べることを意図したものではなく、1コリント書でパウロが述べているように、聖書が書き記されたのはキリスト者のためであり、キリスト者がより良く生きるための教えを解明するものであることを忘れてはならない。つまり、オリゲネスの聖書釈義の基盤になっているのは司牧的見地なのであり、キリスト者に霊的な糧を提供することこそオリゲネスの聖書釈義、説教の目指したものでした。

 例えば、詩編101・8に「朝ごとに、私はこの地の逆らう者を滅ぼし、悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます」とあります。この言葉を文字通りに取ることができるでしょうか。オリゲネスは、ここで言われる「悪を行う者」とは文字通りの悪人ではなく、各人の心に浮かんでくる邪悪な思いであると説明します。また、律法に定められた各種の動物の犠牲についてはどう考えたらよいのでしょう。神殿が存続した時代にはそれが実践されたことをオリゲネスは認めます。しかし、キリストが到来し、旧約の預言は成就された今、また神殿も崩壊されたこの時代に、それらは全く意味のないものとなったのでしょうか。否、今でも、人が良く生きるための教えを提示しています。自分の体の傲慢に打ち勝つなら、その人は牡牛を屠ることになり、短気を克服するなら、牡羊を屠殺し、情欲に打ち勝つなら、山羊を焼き尽くすいけにえとして献げ、勝手に飛び回り落ちつきなく不確かな思いを削り落とすなら、雉鳩と鳩を屠ることになると、オリゲネスは説いています。このようにして、キリスト者の倫理が説かれるのです。

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小高 毅

1942(昭和17)年、韓国京城(現ソウル)に生まれる。上智大学大学院神学科博士課程修了。この間、ローマのアウグスティニアヌム教父研究所に留学。カトリック司祭、フランシスコ会士。

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