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これってどんな種?

【しか】から【も】という種 キリストの聖体(ルカ9・11b〜17)

 きょうの典礼は、「キリストの聖体」の祭日です。私たちは、いつもミサの中で【聖体】を頂いていますが、改めてその【聖体】を意識し、味わうことができたらいいですね。

 きょうのみことばは、イエス様が男性だけで5000人の人たちにパンと魚で満腹させる場面です。きょうのみことばの少し前ですが、弟子たちは、イエス様から宣教をするために派遣され戻ってきて、自分たちが行ったことをイエス様に報告します。イエス様は、そんな弟子たちを休ませるために、ベトサイダへと退かれます。弟子たちが言うように、そこは人里離れたところで誰にも邪魔されずにゆっくりと休める場所だったのでしょう。

 この「休みの時」というのは、私たちにとって大切な時となのです。信徒の方もそうですが、特に司祭や修道者は、年に決まった期間を全く現場から離れて黙想の家などで「黙想」を行い、1年を振り返るとともに次の1年の霊的目標を立てることがあります。この【黙想】をすることで身体的にも霊的にも力を得て新たな気持ちで宣教ができるのです。イエス様は、宣教から戻った弟子たちが行ってきた宣教の成果を分かち合い、振り返りながらこれからの宣教へ向けての準備をするために、人里離れたベトサイダへ退かれたのではないでしょうか。

 しかし、群衆は、イエス様の意図と反してイエス様の後を追ってきたのです。みことばには、書かれてありませんが、イエス様はきっと彼らを見て憐れに思われた(マタイ14・14参照)のではないでしょうか。それで、イエス様は彼らを迎えて、神の国について語られ、治療を必要とする人々を癒やされます。人々は弟子たちが休むためにベトサイダに行ったのにも関わらず、自分たちの癒し、神の国の教えを聞かなければ、と言うことに気づいたのです。ある意味、自分勝手のようにもしますが、彼らにとっては、切羽詰まった事情があり大切な時だったと言ってもいいでしょう。

 イエス様は、彼らに教え、癒すことで時間を忘れたのかもしれません。日が傾きかけてきたので、弟子たちはイエス様の所に来て、「群衆を解散させてください。そうすれば、近くの村や村里で宿をとり、食べ物を手に入れることができます」と言います。弟子たちは、あまりにも多い群衆だったので食事のことまで手に負えないと思ったのでしょう。みことばには、「およそ5000人の男がいたからである」とありますので、もしかしたら女性もいたことでしょうし、子どももいたかもしれませんので、5000人以上いたのではないでしょうか。そんな大勢の群衆に対して、弟子たちは自分たちが彼らに対して食事を準備することが不可能だと思って、帰そうとしたのです。しかし、イエス様は、そうではなく「あなた方が、彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。イエス様は、人々を【外】に追いやるのではなく【内】に包み込み、一緒に食卓を囲むお方なのです。

 弟子たちは、このイエス様の言葉を聞き、「わたしたちには、5つのパンと2匹の魚しかありません。わたしたちが行って、このすべての民のために、食べ物を買ってこないことには」と返事をします。弟子たちは、これだけの人々に対して、【5つのパンと2匹の魚】では焼け石に水でありましたし、食べ物を買いに行くと言ってもどれだけの量の食べ物を買えばいいのか検討もできなかったのではないでしょか。

 もう一つ、弟子たちが言った言葉の中に「わたしたちには」とか「わたしたちが行って」とありますように、【自分たち】が中心になっています。確かにイエス様は、「あなた方が、彼らに食べ物を与えなさい」と言われましたが、その中には、「【私】を忘れないでください」という意味も含まれていたのではないでしょうか。イエス様は、弟子たちに「人々を50人ずつの組にして座らせなさい」と言われます。もしかしたらこの【組】というのは、私たちの小教区と言ってもいいでしょうし、弟子たちはそれぞれの司祭と言ってもいいのかもしれません。

 イエス様は、「5つのパンと2匹の魚」を取られて、「天を仰いで」「賛美を捧げ」「裂いて」群衆に配るために、弟子たちに渡されます。イエス様は、まずおん父に対して祈られ、次に「5つのパンと2匹の魚」を祝福の祈りをされ、そして分かち合うために「裂いた」ものを弟子たちに渡して群衆に配らせたのでした。結果的には、【弟子たちが食べ物を与える】のですが、それは、イエス様の業があったからできたのでした。人々はみな、満腹するまで食べ、さらに余ったパン切れを集めると、12籠もあったのです。イエス様のみ業は、弟子たちが「5つのパンと2匹の魚【しか】」ありませんが、「12の籠【も】」に変えたのでした。

 私たちは、ミサに与る前にホスチアを器(チボリウム)の中に入れます。このホスチアは、「私の心、祈り、願い、思い」と言ってもいいのかもしれません。司祭は、それぞれの意向をミサの中でホスチアを三位一体の神に捧げ、賛美し、私たちにくださっているのではないでしょうか。私たちは、「5つのパンと2匹の魚」を出し合いながら、イエス様が【満腹】するまで豊かな恵みを与えてくださることに信頼して【聖体】をいただくことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  2. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

  3. 愛なしにはという種 年間第31主日(マルコ12・28b〜34)

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