序)
私が頭ケ島を初めて訪れたのは、一九八三年の夏のこと。聖アントニオ神学院の神学科四年生で、同級生には頭ケ島出身の松井繁美神父(フランシスコ会)がいた。彼がこの年の秋に荘厳誓願を立てるということで、その直前の夏休みの時でした。彼に「故郷の頭ケ島へ一緒に来ないか」と誘われ、頭ケ島を訪れることになりました。彼の実家は、頭ケ島の田尻の所にあったが、家族は有川町のはまぐり蛤や大阪へ引っ越し、従兄弟が頭ケ島教会近くに住んでいました。二年前に頭ケ島大橋、上五島空港が完成したばかりで、交通の便もよくなり、観光客も来るようになっていた。頭ケ島と対岸のとも友ずみ住集落まで、約一五〇メートルの瀬戸だが、潮の流れが速く、船で渡るのはかなり難儀したようだ。また上五島空港から福江空港と福岡空港へ行ったことがあるが、セスナ機で八人乗りだったことを記憶している。飛行機のバランスを取るため、搭乗前に体重測定があったのはとてもユニークでした。そうした中、上五島空港から福江空港へ行った際、低空飛行ではあったが、五島の島々がきれいに見え、リアス式海岸やこん紺ぺき碧の海が鮮やかだった。利用客の減少もあり、上五島空港を発着する路線は、残念ながら二〇〇六年に廃止となった。
1 ドミンゴ森松次郎と教会
頭ケ島の中心は、何と言っても頭ケ島教会。いちばん最初に見た時の印象は、小さな島にこれだけ立派な石造りの教会がよく完成したものだと感心した。江戸時代末期、無人島だったこの島へ迫害を逃れてたい鯛ノ浦のキリシタンたちが移り住んだ。その後、鯛ノ浦出身で、信徒発見(一八六五年三月十七日)後、宣教に専念したドミンゴ森松次郎が神父たちをかくまうためにこの島へ移り住んだ。彼が自宅で開いた伝道師養成所は、五島各地から信徒が要理の勉強のために訪れていた。やがてこの島にも迫害の手が及び、住民は島を脱出したが、禁教令が解かれて、再び島に戻ってきた。
一八八七年、ドミンゴ森松次郎の屋敷跡に木造の聖堂が建てられた。その後、設計・施工を鉄川与助に依頼し、一九一〇年、石造りの聖堂建設が始まったが、資金難で工事は一時中断。そうした困難を乗り越えて一九一九年に完成した。信者たちは、頭ケ島の対岸にある友住集落の山から石を切り出し、積み上げていった。石には数字など、信者たちの刻印が施されている。また聖堂内の花の装飾模様はとてもきれい。
2 殉教
教会の敷地内には、ブレル神父同伴信徒殉教者記念碑、キリシタン拷問五六石、五島キリシタン復活信仰顕彰之碑などがある。
ブレル神父は一八八〇年から鯛ノ浦で上五島の司牧に当たり、養護施設(現在の希望の灯学園)や教育施設を設立して、人々に慕われていた。一八八五年、そと外め海の出津に出かけていたブレル神父のもとに、死の間際の信者のため、しゅう終ゆ油の秘跡(現在の病者の塗油)を求めて迎えの船が来た。その後、ブレル神父を乗せた船は上五島へ向かったが、有川湾の平島付近でしけのために遭難してしまった。一八八七年、上五島の信者たちは、神父の遺徳を偲び、遺品を納めた墓に八角形の大墓標を建て、その傍らに死を共にした十二人の若い信者たちの遺品を埋葬し、石碑を建てた。
キリシタン拷問五六石は、迫害の厳しさを想像させる。明治時代の初め、カトリックに対する弾圧は、この島にも及んできた。捕らえられた信者たちは激しい拷問を加えられ、棄教を迫られた。さん算ぎ木責めという拷問では、鋭角に削った材木を五本並べ、信者はその上に座らせられ、一枚四十五キロほどある板石が膝の上に積まれていった。気絶すれば水をかけられて正気に戻され、痛みを増すために石を揺すられたりもした。板石はあご顎にまで達したが、けっして「転ぶ(棄教する)」とは言わなかった。この石を見ると、拷問の壮絶さを知ることができる。