「聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。「『それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」(ヘブライ10,15-17)
Ⅰ ミサのいけにえは、礼拝、つぐない、嘆願という四つの目的のために神にささげられます。実にそのいけにえは、礼拝と感謝、あがないと懇願のいけにえです。礼拝のために、神は最高善です。いなむしろ善そのものです。彼から出なかったいかなる善もありません。彼ははじめであり、すべてのものの終わりです。その完全さは無限であり、そのすべての完全さは無限です。彼は永遠、全能、正義、あわれみ、無辺、全知です。ご自分で充足されていたため、何も必要ではありません。しかしその愛は、自分以外に存在するすべてのものをつくることによって、新しい愛を開かれました。そして被造物は、彼を知り、ふさわしいほまれと礼拝を、彼に帰さなければなりませんでした。残念なことに、被造物はそうしませんでした。その偉大さに比例したほまれを帰さなかったのです。彼は無限ですから、無限のほまれを受けるにふさわしかったのです。しかしこのほまれは、まことの人でありまことの神であるイエス・キリストだけがおん父にそれを帰すことができたのです。キリストは、ミサ聖祭において、いけにえのかたちでそれをささげました。このかたちは、神のためだけに存在する、すべてのものの上に及ぶ、神の最高の支配を知らせるのです。
Ⅱ 感謝のために、私たちがもっているものは、神からのものです。「あなたがもらわなかったものが何かあるか」(Ⅰコリント4,7 )。創造、救済、成果は神からのものです。神から、いのちとその能力をそなえたたましい、感覚をそなえた五官を与えられました。世界と教会と私たちに恵みが与えられました。「私に与えられた主の恵みに、名にをもって報いようか。救いのさかずきをあげ、主のみ名を乞おう」(詩編 116,12-13)イエス・キリストはパンを聖別するまえに、おん父に感謝しました。ブドウ酒を聖別するまえに、同様に感謝しました。そのことは、このいけにえが、感謝の祭儀であることを意味しています。託身されたおん子によって、おん父へささげられた感謝より、もっともふさわしい感謝は他にありません。それは無限の価値があります。神はそれを、「あなたに感謝してささげるものをこころよく受け入れなさい……」という祈りに従って、受け入れ、よみされます。旧約の律法によるすべてのいけにえと、数百万の殉教者が流した血ではなくても、イエス・キリストのおん血は、人となられた神のおん血であるため、十分なものとなるのです。
Ⅲ つぐないのために。いけにえがくりかえされるたびごとに、あがないのわざはくりかえされます。イエス・キリストは最後の晩餐にあたり、ご自分のからだを聖別しながら、「あなたがたのためにほふられる私のからだ」(Ⅰコリント 11,24)とおっしゃいました。またご自分の血についても、「あなたがたのために流される私の血」(マタイ26,26.マルコ14,24 )とおっしゃいました。そのため、トリエント公会議は、ミサ聖祭について、「ミサ聖祭は、つぐないのいけにえである。それにより、罪人は痛悔の恩寵と神との和解を得ることができる。さらにミサ聖祭は、煉獄の霊魂のためにも、彼らがまだ神に対して持っている負債をつぐなうことによって、役立つのである」と教えているのです。
・糾明───ミサ聖祭の目的をよくわかっているだろうか。私の内的心構えは、イエス・キリストが苦しまれた意向と目的に一致しているだろうか。いけにえであり、奉献者であるキリストに似たものとなっているだろうか。
・決心───ミサの要素、儀式、祈り、教えなどをよりよく理解するようつとめよう。そしてイエス・キリスト自身に恵みを求めよう。
『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。