教会は、聖バルナバを6月11日に記念します。バルナバは、使徒言行録の前半に登場します。キプロス島生まれで、本名をヨセフといい、「バルナバ」は「慰めの子」という意味の呼称でした。教会の特徴である内的・外的一致の表れとして、貧しい人たちを助けるために、持っていた畑を売って、その代金を寄付したことが記されています(使徒言行録4・36−37)。
バルナバは、パウロがダマスコに向かう途上で復活のキリストと出会って回心し、エルサレムに戻ってきたとき、再び登場します。パウロは、「弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れ」ました。そのような状況にあって、バルナバはこのパウロを「連れて使徒たちのところへ案内し」、パウロが「主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明し」ました。このため、パウロは「エルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教える」ようになりました(以上、9・26-28)。
その後、バルナバはエルサレムの教会からアンティオキアへ派遣されます。エルサレムでは、ステファノの殺害をきっかけに、キリスト者に対して大迫害が起き、多くのキリスト者がエルサレムを離れていくのですが、彼らは逃れていく途中の町々で、キリストを告げ知らせます。アンティオキアでも、異邦人にも福音が告げ知らされ、多くの人がキリストを信じるようになります。そこで、バルナバが派遣されるのです。バルナバは「立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」と記されています。バルナバによって、アンティオキアでは、さらに「多くの人が主へと導かれ」ました(以上、11・19-24)。
ところが、その後、バルナバはパウロを「捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰」ります(11・25-26)。前述したように、パウロは、回心の後、すぐに福音を宣べ伝えるのですが、それまで共に行動していたユダヤ人たちは、パウロを裏切り者と見なし、殺そうとしました。一方で、キリスト者たちのほとんどがまだパウロのことを疑いの目で見ていました。そのため、ダマスコでもエルサレムでも、騒動が起きてしまい、パウロは結局、生まれ故郷のタルソスに身を隠さざるをえなかったのです。ところが、この埋もれていたパウロを、バルナバが表舞台に連れ戻します。しかも、このアンティオキアの教会は、おそらくユダヤ人と異邦人が共生するはじめての共同体であり、「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(11・26)共同体でした。バルナバは、パウロと共に、丸一年の間、アンティオキアの教会にいて、多くの人々を教え導きました。
その後、大飢饉が起こると、アンティオキア教会では、「ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決め」、これを長老たちに届ける任務をバルナバとパウロに託します(11・27-30)。また、アンティオキア教会は、聖霊の導きを受けて、ほかの町への宣教活動を始めます。そのために選ばれたのもこの二人でした。彼らは、教会全体の断食と祈り、按手とともに宣教に出発します(13・1-3)。通常、パウロの第一回宣教旅行と呼ばれているものです。聖バルナバ使徒を記念するミサの第一朗読では、アンティオキア教会におけるバルナバの活動、バルナバがパウロを捜しに行く様子、そして宣教への出発の場面が合わせて朗読されます(11・21b-26、13・1-3)。
さて、宣教へと出発した二人は、まずキプロス島へ向かいます。キプロスはかなり大きな島ですが、「島全体を巡って」(13・6)と記されていますから、二人は精力的に宣教をしたのでしょう。キプロス島はバルナバの出身地ですし、アンティオキアの教会自体が「キプロス島やキレネから来た者」たちの宣教の実りでもありましたから、思い入れも違ったのでしょう。その後、二人は船でパンフィリア州のペルゲに渡ります。それから、アナトリア半島(現在のトルコ)南東部を中心に福音を告げ知らせます。具体的には、ピシディア州のアンティオキアとイコニオン、リカオニア州のリストラとデルベを回りました。そして、シリアのアンティオキアに戻りました(13~14章)。
その後、アンティオキアの教会では、ユダヤから来たある人々と、パウロやバルナバとの間で「激しい意見の対立と論争」が生じます。論点は、異邦人が割礼を受ける義務があるかどうかという点でした。このため、使徒たちや長老たちと協議するために、アンティオキアからパウロとバルナバを中心とする使節が派遣されます。異邦人に割礼を義務づけることを主張する人々は多くいましたが、会議の方向性は、聖霊のはたらきを語るペトロの証言によって決定づけられました。「神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、……わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。……わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」(15・8-11)。こうして、異邦人に割礼を強要しないとの決定がなされたのです。
パウロとバルナバは、「アンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた」(15・35)後、再び宣教旅行に出発しようとします。しかし、ここで二人の間に対立が起こりました。彼らは、最初の宣教のときに、バルナバの親戚で、マルコと呼ばれていたヨハネを連れていったのですが、彼はキプロス島を回った後、彼らと別れてエルサレムへ帰ってしまいました。バルナバは、再び彼を連れていこうとします。しかし、パウロは彼が途中で離れてしまったことを重視し、彼を連れて行くべきではないと主張します。結局、彼らは合意することができず、別行動をとるようになります。バルナバは、マルコを連れて、キプロス島へ向かい、パウロは、シラスを連れてシリア州やキリキア州を回るのです(15・36-41)。この後、使徒言行録にはバルナバは一切登場しません。使徒言行録の視点は、パウロの宣教活動へと集中して行くからです(ただし、これは使徒言行録の著者の視点であり、バルナバのそれ以後の活動に対する評価を示すものではありません)。なお、バルナバは、パウロの手紙にも何度か名前が挙げられています(一コリント9・6、ガラテヤ2・1,9,13)。
使徒言行録では、バルナバは初代教会の理想である一致を体現する人物として描かれているようです。上述したように、バルナバは、財産の共有という理想をみずからの財産を用いて実践しましたし、パウロがなかなか教会に受け入れられない状況で、率先してパウロを使徒たちのもとに連れていき、仲介役を買って出ました。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の一致が試されたモデル・ケースのようなアンティオキアの教会に派遣されましたし、その任務を一人で果たそうとはせず、埋もれていたパウロを見つけ出し、二人で協力しながらこの務めを果たしました。パウロは、アンティオキアの教会や、宣教に行った町々で、急速に認められるようになります。パウロを表舞台へと導き出したバルナバにすれば、誇らしくもある半面、ねたましく感じたことがあったかもしれません。しかし、バルナバは、このパウロと共に、アンティオキアの教会を導き、最初の宣教の旅を実現させるのです。また、一度は挫折した若者マルコを見捨てずに、再び彼を連れていこうとしたのも、(親戚であったことも影響したかもしれませんが)相手の態度にかかわらず信頼し続け、忍耐強く一致を模索する、彼の姿勢の表れだったのかもしれません。これらすべてを、バルナバが行うことができたのは、「聖霊と信仰とに満ちていた」からです。バルナバは、教会における一致、信頼、協働、指導といったものが、どういうもので、どのように果たされなければならないかの模範を示してくれているように思います。
しかしながら、そのバルナバもパウロとぶつかってしまいました。使徒言行録は、「意見が激しく衝突した」(使徒言行録15・39)と記しています。非常に強い表現です。しかも、それは宣教を行おうとして起きた衝突、宣教のパートナーをだれにするかという点で生じた衝突でした。福音の宣教というすばらしい活動をするために、どちらも良かれと考えて主張したことが、衝突の原因となってしまったのです。異邦人への宣教という厳しい歩みをするうえで、途中で挫折してしまうような人を連れていっても、宣教活動そのものがとどこおってしまう。パウロはそう考えたのかもしれません。一方のバルナバは、上述したとおり、たった一回の挫折や失敗でその人の評価を固定したり、切り捨てたりすることはキリスト者としてふさわしくないと考えたのかもしれません。バルナバにしてみれば、敵対者であったパウロを擁護し、パートナーに選んだときと同じ思いだったのかもしれないのです。
良いことを行おうとするがあまり、また熱心なあまり、衝突してしまう。皮肉なように見えますが、それがわたしたち人間なのだと思います。どんなに「聖霊と信仰に満ちている」人であっても、神の望みをすべて理解することはできません。わたしたちとしては、その中を歩んでいくほかはないのでしょう。しかし、それは「あきらめる」という意味ではありません。わたしたちの思い込みや思い違い、そこから生じる衝突からも、神が救いの実りを導き出してくださることに「信頼する」ということなのです。パウロにせよ、バルナバにせよ、この出来事を痛みをもって心にとどめながらも、しかし神の恵みに信頼して、それぞれの場で宣教活動を続けていったのです。わたしたちも、教会の中でぶつかることがあるでしょう。良かれと思ってやっていることで、対立が生じると、痛みもさらに大きなものと感じられるでしょう。そのときに、教会に失望してすべてを放り出してしまうのか、それとも神に信頼して救いのためにはたらき続けるのか。わたしたちの信仰の本質が問われているのだと思います。