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カトリック入門

「カトリック入門」 第80回 日本の信徒発見の聖母【動画で学ぶ】

序)1549年、フランシスコ・ザビエルの来日以来、多くの宣教師や伝道師の努力で、約60年間で30万人のほどが信者になった。しかし、1587年に豊臣秀吉が突如として宣教師追放令を出し、その10年後には日本26聖人の殉教の時が訪れた。

1 徳川幕府
*徳川幕府の時代、禁教政策を強め、1614年には全国にキリシタン禁教令が発令され、宣教師が国外追放されたり、信者が拷問を受けたり、聖堂が破壊されたりした。1639年には鎖国となり、キリシタンの全滅をはかった。
*1700年代にはキリシタンの力も衰え、1800年代には、表面的にはキリシタンはいないような様相となった。

2 天主堂の建設
*1846年、教皇グレゴリオ十六世は、日本を代牧区とし、その宣教を中国のマカオにいたパリ外国宣教会の宣教師たちに依頼した。彼らは琉球にわたり、役人の圧迫や風土気候の悪条件と闘いながら、日本語を学んで時期の到来を待っていた。
*1853年、アメリカのペリーが来航し、開国を迫ったので幕府も世界の情勢に押され、ついには鎖国政策を取りやめ、和親条約、さらには1858年に諸外国との修好通商条約を結んだ。この条約によって、日本での外国人の信教の自由が認められ、外国人居住区での聖堂の建設が許可されるようになった。
*当時、琉球にいたジラース神父が、新たに日本教区長に任命され、初代駐日フランス総領事ベルクールの通訳兼領事館付司祭として、1859年に江戸に到着した。その三年後には、横浜居留地に開国後の日本最初の聖堂が建設され、さらに1864年12月29日にゴシック風の大浦天主堂が完成し、1865年2月19日に献堂式が行われた。長崎市民から「フランス寺」と呼ばれていた。

3 信徒発見
*大浦天主堂の献堂式から一か月が過ぎた1865年3月17日、プティジャン神父は14、15人の見物人が、聖堂の門前に立っているのを見た。ただの好奇心で来たのではないと分かったので、プティジャン神父は門を開いて聖堂内に案内し、祭壇の前にひざまずいて、一心に祈った。神父は今でもどこかでカトリック信徒がひそかに信仰を伝えているのではないか、というかすかな期待があった。
*その中の婦人が「サンタ・マリアのご像はどこにございますか」と尋ねた。プティジャン神父は、「サンタ・マリア」と聞いて、これは疑いもなくカトリック信者の子孫であると思い、喜んで彼らを聖母マリア像の祭壇に案内し、その前にひざまずくと、彼らも共にひざまずき、何やら祈りを唱える様子だったが、皆、感極まって「おお、本当にサンタ・マリア様よ。御覧なさい、御腕に御子イエス様を抱いておいでになる」と口々に叫んだ。
*それから彼らは、聖母像であること、神父が独身であること、ローマ教皇から派遣されたことを確認した。
*こうしてプティジャン神父にイザベリナ杉本ゆりという52歳の女性を中心とした三人の女性たちが近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」(私の宗旨はあなたの宗旨と同じです)とささやき、自分たちがカトリック信徒であることを告白した。

*大浦天主堂から北に約6kmほどの浦上の農民たちは、16世紀のキリシタン時代から7世代250年、信仰を伝えてきたキリシタンの子孫たちであった。彼らの最大の願いは、神父の再渡来であった。「7代たてばローマからパーパ(教皇)様から送られたパーデレ(神父)がやってくる」というバスチャンの預言が伝えられ、彼らの大きな希望となっていた。
*浦上の農民たちは、フランス寺にやってきて、「サンタ・マリア様がいらっしゃれば、フランス寺の異人さんはパーデレ(神父)さまに違いない」という確信が彼らの間に生まれた。

4 その後
*プティジャン神父との面談が宣伝され、その翌日からは、浦上をはじめ長崎近海の島々から信徒たちが聖堂に来て、神父に面会を求めるようになった。この「信徒発見」の知らせは、当時の教皇ピオ9世のもとにもたらされた。教皇は感激して、これを「東洋の奇跡」と呼んだ。この3月17日は、日本の典礼では、「日本の信徒発見の聖母」の祝日となっている。
*この喜びもつかの間、明治になってもキリシタンへの禁教令は敷かれたままで、再び迫害が起こり、「浦上四番崩れ」(1867年)に端を発する弾圧があり、1868年と1870年の二回、約3400名の浦上キリシタンが西日本の20藩(22箇所)に流配された。

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