序)1862年に日本26聖人殉教者が列聖され、その5年後の1867年に日本の205人の殉教者が教皇レオ13世によって福者に挙げられました。この205人は、1617年~1633年までの15年間、長崎、江戸、仙台などで殉教した方々です。国籍は、日本、スペイン、ポルトガルなど、7か国に及んでいます。もともとは、221人でしたが、1981年2月、教皇ヨハネ・パウロ二世によってマニラで長崎での殉教者16名が列聖され、現在は205人となっています。
1 厳しい迫害
*1597年、日本26聖人が殉教した後、宣教師や信徒たちの努力で信者の数は増していった。徳川家康の時代に入ると、迫害が厳しくなり、1614年には全国にキリシタン禁教令が発令され、宣教師や有名な信徒などが国外へ多数、追放された。
*それでも信徒の数は数十万になったといわれ、宣教師たちは信者たちを捨て去ることはせず、潜伏残留し、さらに毎年何人かずつ国外から潜入して信徒の司牧にあたった。幕府は手当たりしだいにキリシタンを逮捕し、処刑した。特に徳川家光の時代になると、島原の乱後、キリシタン迫害はますます厳しくなった。キリシタンを密告した者に対する懸賞金制度、踏み絵、寺請制度、五人組連座の制度など、取り締まりが強化された。こうしてキリシタンは検挙され、拷問、はりつけ、斬首、火あぶり、水責め、雲仙での熱湯責めなど、棄教を強制され、命を奪われた。
2 レオナルド木村神父の殉教
*205人の中でもレオナルド木村神父を紹介する。彼はフランシスコ・ザビエルから受洗した木村家の子孫であり、イエズス会の司祭であった。1550年、平戸でザビエルから洗礼を受けた宿主、木村家の孫で長崎に生まれた。
*少年時代にセミナリオに入り、13歳で同宿となり、1602年、長崎のイエズス会修練院に入った。以来17年間、信心深く、学力もあり、絵も描いた。イエズス会の名簿には、「画家および銅版彫刻師」とある。
3 投獄
*1614年、宣教師追放令が出されると、長上の命令に従い、国内に潜伏して、山陽、山陰でキリシタンの指導と宣教にあたった。ところが1616年、大坂城に入っていた有名なキリシタン武将明石掃部(あかしかもん)の子で、豊臣秀頼の武将であった内記(ないき)を探索するため二人の役人が長崎に来た。内記は大阪で死なず、長崎に逃げ込んでいたと思われていた。探索の結果、1616年12月、内記をはじめ、レオナルド木村神父も内記をかくまっていたという理由で逮捕された。それから三年間、木村神父は牢獄で暮らすことになった。木村神父以外に、13人がキリストを信仰しているゆえに入り、他に未信者が7人牢獄に入っていた。
*木村神父は、牢獄では毎日、キリシタン囚人たちと共に一時間の念祷、一時間の声を出しての祈り、朝食まで霊的読書。午後は一時間の祈り、読書、書き物など。断食もし、苦行もおこなった。
*木村神父は牢獄の最も悪い部屋を選んでいたが、囚人が増えるとそこも人に譲って、天井が低く座ろうとしても頭がつかえるような窮屈な所に移った。それでもきわめて快活で、喜びに満ちていた。キリシタン囚人に限らず、未信者たちもレオナルド神父によって慰められた。彼は囚人たちにキリスト教の神秘を説き、新入牢者を親切に扱った。
*牢獄の門前を生活の場としていた80歳の年老いた女性に、自分の食べ物を与え、死ぬまで養っていた。外部からキリシタンたちに差し入れがあると、同囚の人たちばかりでなく、他の牢獄の人たちにも分け与えた。
*囚人たちはレオナルドのキリスト教的愛を知り、キリシタンになるものが多く、受洗者が96人にのぼった。キリスト教をよく教えていたので、牢獄での苦しみを喜んで耐えることができた。
4 処刑
*1619年、アンドレア村山徳庵(とくあん)、吉田ジョアン、竹屋コスメ、ホルトガル人ドミンゴス・ジョルジと共にレオナルド木村神父にも火あぶりの刑の判決がくだった。他の四人は、宣教師たちをかくまった宿主たちである。火あぶりの刑は、殉教者を出さないための苦し紛れに棄教者をだすための陰謀であった。
*処刑は長崎の西坂で行われた。レオナルドは火が近づくと「ラウダーテ(ほめたたえよ)」を繰り返し祈った。他の四人もレオナルド神父と同じように安らかな最期を遂げた。1619年11月18日のことだった。
*イエズス会の報告書には、「恐ろしい刑罰の中にありながら、かくまで喜ばしい面持ちをしている彼らを見守る人の感動は信じられないほどで、長崎の町々や周辺では、長くこのうわさで持ち切った」と記されている。