オリゲネスは『諸原理について』第四巻の第一~三章で、聖書観と聖書解釈法について論じています。彼によれば、人間が体-魂-霊から成るように、聖書も体-魂-霊から成り、体としての文字通りの意味、魂としての道徳上の意味、霊としての神の永遠の神秘や、来るべき代のことを表している意味があると考えています。
ところが、ごく僅かではあるが、文字通りの意味に取れない箇所があるといいます(四・3・1-2にその例が上げられている)。それらは、聖書には文字通りに理解される意味のほかに、霊的な意味もあることを理解させるために、神が故意に、挿入させたものであり、これが「つまずきの石」でもあります。従って、「土の器の内にに隠された宝」のように、聖書には常に霊的な意味が隠されているのであるから、この霊的な意味こそ聖書の中に探し求められねばなりません。まさに、この霊的な意味の探求に、彼はその生涯のすべてをかけたといえるでしょう。もちろん、聖書の意味を究めるには、聖書の真の著者である聖霊に満たされねばならない。そのためには心を清め、神に従う生活に精励せねばなりません。だが、それにしても、人間の知恵はあまりにも貧弱で、神の無限の知恵を仰ぎ見るのは、神の知恵であるキリストと完全に一つになり、キリストと共に父なる神の顔を仰ぎ見る時のことになります。
ここでもベネディクト十六世の言葉が重なります。先に上げた『主のことば』に次のよう言葉が見られます。
「『真理の霊』の力強い働きなしに、主のことばを理解することはできません。聖イレネオが述べるとおり・・・・。神のことばは、聖霊の働きによって、キリストのからだ、すなわち聖体のからだと聖書のからだのうちに、わたしたちにもたらされます。それと同じように、わたしたちは神のことばを、同じ霊を通して、初めて真の意味で受け入れ、理解することができます。(この後、聖ヨハネ・クリゾストモ、聖ヒエロニムス、大聖グレゴリオ、サン=ヴィクトルのリカルドゥスの言葉が引用され、次の言葉で結ばれる)ここから次のことが明らかになります。教会と信者の心における弁護者である聖霊の働きを受け入れなければ、みことばの意味を理解することはできません」(16.p.41-43)。
迫害の時代に聖書を当局に手渡した者は「トラディトール」と呼ばれて、イエスを裏切った(手渡した)ユダになぞらえられたのも、聖書をみ言葉の体という考えに基づいて考えれば理解しやすいことです。