「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ 4,23-24 )
Ⅰ ピオ十二世は次のようにしたためています。「聖なる典礼は、救い主が教会の頭として、おん父に帰す公的な礼拝である。そしてまた、信者の団体がその頭に、また頭をとおして天のおん父に帰す礼拝である。簡単に言えば、神秘体、すなわちイエス・キリストのからだ、つまり頭とその肢体の全体的な礼拝である」と。
イエス・キリストは、この世に入られてから、完全な従順と純粋な愛、たえざる賛美と礼拝、涙と大いなる力をもって行なわれる祈りと嘆願をもって、ご自分に完全な礼拝をはじめられた。
教会は、この礼拝を続けています。イエスのあがないとユーカリスチア的感謝に結ばれている教会は、その役務者と全信者を通して、神の内的・外的礼拝をいつも捧げています。
Ⅱ 礼拝は全体的なものでなければなりません。すなわち、信仰による知性のまことの服従、福音のおきてへの従順、愛による神との親しい一致、教会が教え、また実施しているような外的礼拝と聖体への参与、ならびにミサの犠牲の奉献などによって、全体的なものでなければなりません、実にその目的は、キリストにおいて、私たちをよき子どももとなすのであります。
人となられた神のおん子は、その誕生に際して、神の栄光、人々に平和、と天使が歌ったあのプログラムをたえず目ざしていました。教会もそれと同じことを目ざしています。名、人間は、神の栄光と天国の喜びをいつまでも享受するためにつくられたからです。世々にわたり、一人の使徒、一人の司祭が行くところではいつもそこには、祭壇がたてられ、汚れなきささげものがささげられ、秘跡によって霊魂に生命を伝えるのです。
Ⅲ 礼拝の第一でよりよい部分は、内的な礼拝です。内的な礼拝は外的なすべての礼拝のたましいです。「主のおんからだをわきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばきを飲食すること」(Ⅰコリント 11,29)になるのです。それゆえ、自分がどのようであるかを吟味しなければならないのです。
・糾明───主への全体的な礼拝は、義務であるとの考えを持っているだろうか。主に、この礼拝をささげているだろうか。また毎日、信仰と正しい良識、ならびに清い心で主を礼拝しているだろうか。
・決心───清い心ささげたアベルのささげたいけにえを、主が、心よく受け入れたように主が私の礼拝を受け入れてくださるよう努力したい。
『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。