5月31日は、聖母の訪問の祝日です。これは、神の子イエスを身ごもったマリアが、親戚のエリサベトを訪れた出来事を記念するものです。エリサベトも、このとき、高齢ではありましたが、神の力によって男の子(洗礼者ヨハネ)を身ごもっていました。ルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生までの物語とイエスの誕生までの物語を、交互に語るという手法をとっていますが、そのちょうど真ん中にこの二人の母親の出会いの場面、すなわち聖母の訪問の場面が記されてあります。
ところで、マリアはいったい何をするためにエリサベトのもとに行ったのでしょうか。マリアは、エリサベトが身ごもったことを知りました。年をとってからの妊娠ですから、ずいぶんと大変だったことでしょう。そこでマリアは、彼女を助けたい、何かの力になりたいと思って、エリサベトのところに駆けつけた、そういうことなのでしょうか。だとすれば、マリアのエリサベト訪問は、助けを必要としている人のために惜しまず献身する愛のわざの模範ということになるでしょう。しかしながら、福音書はマリアが「三か月ほどエリサベトのところに滞在し」た間に何をしていたのか、一切記していないのです(56節)。まるで、三か月間のマリアの行動(奉仕のわざ)には何の関心もないかのようです。では、福音書の意図はどこにあるのでしょうか。
福音書は、マリアの訪問について語る直前に、天使がイエスの受胎をマリアに告げる場面を記しています。その中で、天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と言っています(35節)。マリアは、神の子イエスを身ごもるにあたって、聖霊に満たされました。そのすぐ後に、エリサベトのところへと向かいました。どうやら、福音書は、エリサベト訪問が神の霊に導かれた行動であった、つまり、マリアの思いやりから生まれた行動ではなく、神の導きに身を任せた行動であり、神がなされたわざであったということを示唆しているようです。
霊に導かれてなされる行いは、イエスや使徒たちの宣教活動を思わせるものです。イエスは、霊の力に満たされて、ガリラヤに帰り、宣教活動を始めますし(4・14)、弟子たちも霊の導くままに宣教をしています(使2・4、7・29、13・2、16・7など)。
この視点で読むと、マリアの訪問は、福音(喜びのよい訪れ)をもたらす神のわざであったと言えるでしょう。霊に満たされたマリアがエリサベトに挨拶をすると、エリサベトも聖霊に満たされます。そして、エリサベトと胎内の子は大きな喜びに包まれます(40〜41節)。そもそも、エリサベトはマリアの訪問を受ける前にすでに喜びの絶頂にあったはずなのです。長い間、不妊の女として、つまり神の祝福にあずかれない者として見られていたのに、神の特別な恵みによって男の子を身ごもったからです。苦しみが長かっただけに喜びもひとしおだったことでしょう(24〜25節)。にもかかわらず、エリサベトはマリアにこの喜びについて一言も語りません。マリアの挨拶によってもたらされた喜びのあまりの大きさに、自分が身ごもったことの喜びをさえ忘れてしまったということでしょうか。
マリアの挨拶は、信仰によってイエスを自分の中に受け入れた人の挨拶です。神の霊に満たされ、全人類の救いを実現するイエスを宿した人の挨拶です(マリア自身がこのことを47〜55節で高らかに語っています)。だから、マリアの挨拶は、何ものにも変えることができない、イエスの救いの喜びをもたらし得たのです。マリアがエリサベトにもたらしたものは、この喜びでした。
信仰によって、イエスを受け入れ、霊に満たされて、自らの中でイエスを育んだ者が、霊の導きに従って、喜びのよい訪れをもたらし、その結果相手も聖霊に包まれる。マリアの訪問は、まさに福音宣教(おそらく最初の福音宣教?)だったと言うことができるでしょう。
これほどすばらしい福音宣教の模範を与えてくださった神に感謝するとともに、聖母マリアを深く黙想しましょう。私たちも、信仰によってイエスを受け入れ、霊に満たされた者です。だから、私たちもマリアのように大きな喜びを人びとにもたらすことができるはずなのです。しかし、そのためにはマリアのように霊の導きに素直に従って行動することが必要です。私たちが、マリアに倣い、ますます霊の導きに従う者となって、イエスの救いの大きな喜びを人びとにもたらすことができますように。